京都編四①_諦めているように見える
「すみません、休憩中なのに付き合ってもらっちゃって」
この世界に来て数日。空き時間は、文字の練習に時間を割くことが多い。
しかし、まだ読み書きできない文字も多い。
今日も例外なく黙々と筆を動かしていたところ、丁度いいタイミングで通りすがった渋沢さんに助けてもらっていたのだ。
「ここは、こう繋がってて、ここから書いて……」
隣で筆を執る渋沢さんが、紙の上に黒く光る美しい文字が、描いてゆく。
「本当に、字がお上手ですね」
「そうかな。ありがとう」
文字の上手い下手など分かるような教養はないが、それでも渋沢さんの書く字は綺麗だと思う。
「文字を書くことが好きなんだ」
スマホやパソコンの便利さにすがって、文字を書く機会がほぼなくなってしまった私とは違う。文字を書かなくてもいいならば、私はペンを持ちたいとも思わない。
気を取り直して筆を持ち直したとき、部屋の障子が開く音がして手を止めた。
「渋沢、ここにいたのか」
見れば、平岡さんが部屋を覗き込んでいる。無意識に、背筋が伸びた。
「ほう、なかなか上手くなったな」
私の手元の紙が目に入ったのか、平岡さんはそう言って口角を上げる。
思わず緩みそうな頬を、そっと隠した。
「僕にご用でしたか」
「ああ、慶喜様から、お目見えの許可が出た」
「……冗談じゃ、ないですよね」
「嘘をつく必要がどこにある」
それはよかった、と渋沢さんを伺えば、渋沢さんは固まった状態でぴくりとも動かない。
渋沢さん、と声をかければ、がばっと肩を掴まれた。
「やったよ!これで、慶喜様に僕の話を聞いてもらえる」
いた、と思わず声が出る。
「ごめん、強く掴んじゃったよね」
「いえ、ただの筋肉痛で」
今朝も渋沢さんと素振りをしていたためである。さほど激しい運動ではなかったというのに、なんとも情けないことである。
「そっか、しばらく安静にしておいたほうがいいよ」
「いえ、すぐ直ります」
たかが筋肉痛だ。さほど支障はない。
むしろ筋肉痛で休むなど、恥ずかしくていたたまれなくなる。
「渋沢、慶喜様がお待ちだ。早く向かいなさい。わかっているだろうが、くれぐれも粗相のないように」
「平岡さん、本当にありがとうございます」
渋沢さんはばたばたと部屋を飛び出していった。
途端に静かになる、部屋の中。
「全く、騒々しい男だ」
平岡さんは呆れたようにつぶやくが、どこかその言葉には温かみがある。それは、まるで大事な人を見守るような。
このような人を、父親らしいと言うのだろうか。
私の父親は今頃、何をしているだろう。一瞬そんなことを考えたが、答えは分かり切っている。いつも通り、仕事に打ち込んでいるに違いない。
間違っても、いなくなった私のことなど。
そんな考えに耽っていれば、唐突に名を呼ばれ、考え込んでいたものを消す。
座るように促され、腰を下ろした。
「牡丹餅は好きか?」
目の前に差し出されたのは、何かを包んだ和紙。開けば、牡丹餅が所狭しと並んでいる。非常に美味しそうで、目が離せない。
そういえば、この世界に来てから甘味を食べていないことに気づいた。
「頂いてもいいんですか?」
「日頃の努力の報酬だ。正式な雇いではないから、このくらいしかできんが。
いつもよく働いてくれている。これからも頼む」
大した仕事も出来ていないと思うが、そう言ってもらえるのは、素直に嬉しかった。
ありがたく、牡丹餅をひとついただく。上品な餡子の甘さが、口いっぱいに広がった。
今朝運動したからか、甘さが体中に染み渡る気がする。とろけてしまいそうだ。
「美味しいです」
「いずみ屋という店で包んでもらった菓子だ。この店は、なかなか評判でな。気が向けば行ってみるといい」
「それじゃあ、そのうちに」
そう言うと、平岡さんは眉を寄せ、何か言いたげな目をする。何か、変なことを言っただろうか。
「外出したいとは、思わないのか」
ぴたりと、牡丹餅をいただいていた手が止まる。
「必要最低限やるべきことをやれば、他の時間は自由。閉じ込めているわけではないのだから、買い物でも食事でも、渋沢を連れてどこに行っても構わない」
平岡さんは、引きこもっている私を気遣ってくれているのだと、ようやく気が付く。
「外に出れば、そのあたりにある文字も目に入るだろう。勉強にもなるんじゃないか。引きこもってばかりいると、病気になるぞ」
平岡さんの言うことは、その通りだと思う。
しかし。
「あまり、外に出たいと思わなくて」
「……きみは以前、浪人に襲われたらしいな。それが原因なら……」
どうやら、あらぬ心配をかけてしまっていたらしい。
確かに、この世界で襲われたあの時は、非常に恐ろしかった。外出しようと思わない理由の一つではあるのかもしれない。
「ただ、そういう気分にならないというか……」
私はこの世界の道理を知らない。行くべき場所なんてない。
「記憶が、ないんだろう?」
確かめるように問われた言葉に、頷く。
「きみからは、記憶を取り戻したいという気持ちが感じられない」
「…………」
「記憶がないのなら、家に帰りたいのなら。駆けずり回ってでも、思い出そうとするものじゃないのか。
俺には、きみが何かを諦めているように見える」
言われて、気が付いた。私は、諦めている。
平岡さんの言うように、本気で思い出したいのなら、それなりの努力をしたはずだ。
それなのに、帰る方法を探すどころか、今はただこの生活に馴染むことを優先している。
思い出したい、帰りたいと思っていたのは事実である。私は元の世界を捨てられない。
しかし。
別に帰らなくても誰も困らないのではないか。帰ったところで意味がない。気づけば、そんな言葉ばかりが心にあった。
何故だろう。何故、私は頑張らないのだろう。
「きみの人生だから、あまり強くは言わないが……」
湯呑みを置いて、平岡さんは私に体を向ける。
「記憶を取り戻すも、取り戻さないも、きみの自由。しかし、自分が動かない限り、何も変えていくことはできない。これから自分が何をするのか、何をしたいのか、考えるべきだな。
何もしなくても、時間は過ぎていく。人生なんて、あっという間に終わる。何もしない時間を費やしすぎると、後悔することになるぞ」
その言葉は、痛いほど心の中に入ってくる。
「今この瞬間は、今しかない。それを、よく覚えておきなさい」
今まで気づかなかった、自身の怠慢。指摘してもらえてよかったと、そう思った。
餅を咀嚼する。平岡さんの言葉が、頭の中でぐるぐると回る。今この瞬間は、今しかない。
当たり前のことなのに、今更理解した。
この時間は、もう二度と帰ってこないのだ。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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