京都編三③_お仕えするのはこのお方だけ
紙にかじりついて筆を動かしていれば、不意に背後から名を呼ばれる。
顔を上げれば、渋沢さんが私の手元を覗き込んでいた。
どれだけの時間がたっていたのだろう。集中していたため、感覚が狂っている。
平岡さんは手紙の返信を書いており、彼の手元の紙は、すでに紙面の半分が文字で埋められていた。
「文字を教えてもらっていたの?」
墨で黒くなった紙を、そっと自分のほうへ寄せる。不格好な文字を見られるのは恥ずかしい。
「たくさん練習したんだね」
すごいね、という言葉に、さらに恥ずかしさが膨れ上がった。
「平岡さん、厳しいでしょ」
「いえ、平岡さんには、とても優しく教えてもらっています」
渋沢さんが平岡さんを優しいと言っていた理由が、よくわかる。
「面倒なはずなのに、全部丁寧に教えてくださるので、とてもありがたいです。文字も、身の回りのことも、できないところはお手本まで見せてくれて」
これまでの人生で、忙しさを理由に何も教えてくれない上司は多かった。見様見真似にも限度がある。新入社員の頃は、苦労をした。
それに比べ、手取り足取りとまではいかないが、平岡さんの寄り添う教育スタイルは大変助かる。
「俺が優しい、か」
平岡さんの大きな口が、わずかに歪む。それが笑みだと気づくには、数秒かかった。
「手本を見せてこそ、師として成り立つ。俺が過去に学んだことでもあるが、お前もそれを忘れるな」
やはり、平岡さんは良い人である。私も、人の上に立つ時が来れば、心がけようと思う。
「俺が捕まらないときは、渋沢に習うといい。渋沢は、字は上手いからな」
「僕でよければ、いつでもなんでも聞いて」
この先必要になる知識ではないかもしれない。しかし、それでも今生きるために必要なものである。
「ところで……渋沢、何か用があったのだろう」
「そうなんです」
渋沢さんは改まったように正座をして、その丸い目をまっすぐに平岡さんへ向けた。
「平岡さん、慶喜様にお伝えしたいことを、この書面にまとめました。お目見えの許可をお願いします」
「またか。そろそろ諦めろ。お前の身分では、お目見えは無理だ」
「仕えるからには、慶喜様に直接、意見を申し上げたいんです」
慶喜様は、この家の一番偉い人のはずだ。そのような人に直接話がしたいと持ち掛ける渋沢さんも、身分が違えば話すこともできないこの世界の条理も、他人事という頭で遠巻きに見る。
「俺にも、出来ることと出来ないことがある」
「そこをなんとか」
袂から取り出された紙が、平岡さんの前に置かれる。ちらりと覗き込むと、そこには毛筆の美しい文字が記されていた。
平岡さんは、所狭しと綴られた文字をさっと読み流す。
見る間に、その目が真剣な色を帯びた。
「……成程、ではこれを慶喜様へご覧いただくように計らおう」
「え、本当ですか」
「何を驚いている。お前が渡せと言ったのだろう。
お前の考えは未熟だが、所々に光るものがある。慶喜様のお目に入れられると判断した。
もちろん、お前の意見が聞き入れられるかはわからん。その後のことは、慶喜様のお心次第だからな」
「はい、ありがとうございます」
自分の中で、慶喜という人物が、どこかの大企業の社長のような印象に変わってゆく。
「慶喜様って、どんな方なんですか」
疑問が口に出る。
私が授業で学んだ徳川慶喜は、非常に輪郭が曖昧だ。知っているのは、幕府を終わらせた最後の将軍だということ。
臆病者、裏切り者、あるいは聡明だったとも言われ、その多くが謎に包まれている。
「慶喜様については……そうだな、一つ昔話をすればどのような御方かわかるだろう」
「わ、平岡さんと慶喜様の話が聞けるなんて」
歴史上の人物のことを、関係者から聞くことができるなど、普通ではありえないことである。
茶を淹れ、二人で座り直す。私たちの視線を受け流しながら、平岡さんはおもむろに口を開いた。
「慶喜様は、元来水戸家のご子息。一橋家の跡継ぎとして来られたのが、御年11歳でいらっしゃる時だったと聞く。
慶喜様は一橋家の人間として、世の動きや政治について相談する相手を欲していらした。そこで俺は、慶喜様の相談役として任命され、一橋家に仕えたのだ。それは、慶喜様が16歳でいらっしゃる時だった。
その頃から、慶喜様は非常に聡明だった。頭の回転が速く、次々に先のことを考えられるものだから、周りが付いていけないことがほとんどであった
しかし、慶喜様のおっしゃられることは、全て核心を突いていらした。ただものではない……すぐにそう気づいた。
慶喜様は、何度も俺にお声をかけてくださった。俺が意見するたびに、『お前は賢い』と褒められた。
しかし、当時の俺は心底『相談役』という立場が気に入らなくてな。思えば、随分な無礼を働いた。
その頃、俺は若かった。態度は褒められたものではなかったし、ご命令に背いたこともあった」
今の真面目で厳しい様子からは、想像もできない。人は変わるものだ。
「慶喜様は、そんな俺に嫌な顔一つしなかった。それどころか、何もできない俺に、仕事から雑務まで自ら手本をお見せくださった。主人が一家来にそんなことをするなど、本来であれば決してあり得ぬことだ。それでも、慶喜様はそれを当然として、俺に接してくださったのだ」
「慶喜様は、お優しいんですね」
「私だけが特別だったわけではない。周りの者たちをよく気にかけ、優しく接されていた。
聡明でありながら、そのように深い御心をお持ちになるお方なのだ。一生を捧げて自分がお仕えするのは、このお方だけだと……強く思った」
この時代で生きていない私には、慶喜様の凄さを理解することは難しい。
しかし、平岡さんが彼を心から慕っていることは、よくわかる。だから、慶喜という人物は絶対にいい人なのだと思った。
しかし、私の知る歴史通りに、事が進むのなら。彼が将軍となった後、すぐに徳川幕府は終わりを迎える。
彼の人生は、今後地に落ちることになる。
「慶喜様は、将軍に……なるんですよね」
私の疑問に、平岡さんは首を横に振った。
「いや、それはわからん。可能性としては勿論あるが」
「将軍様になんて、なっちゃ困りますよ。慶喜様が将軍、幕府の頂点になったら、僕は本格的に幕府の家臣になっちゃいます」
渋沢さんの声を受け流して、平岡さんは言葉を続ける。
「慶喜様は、将軍になることを望んでいない」
それは予想もしていなかったことで、思わず声が出る。何故か、彼も将軍になりたがっていると思い込んでいた。
「頭のいい慶喜様のことだ。将軍になった後、自身がどうなるのか、わかっているのかもしれん」
「…………」
「将軍になれば、この情勢では慶喜様は辛い立場に置かれることになるだろう。
しかし、俺は慶喜様こそが将軍になるべきお方だと思っている。このぐらついた日本を立て直すのは、慶喜様の力なくしては不可能だ。
慶喜様が将軍になることで、国は変わる。必ず、良くなる。
日本のために、慶喜様には将軍になっていただかなければ……」
「…………」
「長話をした。二人とも、区切りのいいところで今日は上がって構わない」
音もなく立ち上がり、平岡さんは部屋を後にする。渋沢さんと、顔を見合わせて、少しの間黙った。
慶喜の人となり、そして平岡さんの思い。予想外に大きなものを目の当たりにした。
渋沢さんも、どこか面食らったような様子で、ただ私を見ている。
しかし、それも一瞬で、渋沢さんはぱっと立ち上がった。
「僕もそろそろ仕事を終わらせるから、帰ってごはんにしよう」
ごはん、という単語に、きゅうっとお腹が縮む感覚がする。
「片づけ終わったら、行きます」
この現実味のない世界でも、変わらずにお腹は空く。
存在の曖昧な自分が、唯一生きていると実感できるものなのかもしれない。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
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