京都編三②_それが普通だ
風の強い日である。青い葉が風に揺れ、時折はらはらと落ちてくる。
風に溶かすように、ため息を零す。未だこの環境に慣れることはない。
いつ帰れるのか。そもそも帰れるのか。気を抜けばそんなことばかり考える頭を叱咤し、自分の身長ほどある竹ぼうきをせっせと動かす。
朝の素振りで少し痛む腕は、それなりに頭を空っぽにしてくれる。集まった落ち葉が、かさかさと音を立てた。
今日の仕事として、玄関まわりの掃除を頼まれたが、この家の敷地はそれなりに広い。履いても履いても落ち葉がなくなることはないが、どんどん落ち葉が集まる様子は楽しいとも思う。
竹ぼうきで掃除するのは、何年ぶりだろう。小学生のころは、よくグラウンドの掃除に使っていたのだが。
「そなたは、新しく参った女中だね」
振り返る。と、若い男が薄い笑みを浮かべて立っている。
白の羽織に袴、紫の着物。その凛とした空気に、自然と背筋が伸びる。この人も、ここで働く人なのだろうか。
「はい、そうです。不慣れなことも多いですが、よろしくお願いします」
「うむ」
男の去る足音を見送る。その音が遠くなってから、ふっと息をついた。
箒を動かし、掃除を再開する。落ち葉の乾いた音が、耳に心地良い。
無意識に、鼻歌が零れる。自らを異邦人と呼び、かつて親しかった人を振り返る。そんな歌だった気がする。
落ち葉をおおかた集め終わったところで、視線を感じて振り返る。先ほどの男が、縁側に座ってじっとこちらを見ていた。
もしかすると、掃除の間、ずっと見ていたのだろうか。
「何か……」
「いや」
男は立ち上がり、こちらに寄る。ふわりと、澄んだ香のにおいがした。
細い目に薄い唇。どこか影を落とす表情。綺麗な人だとは思っていたが、近くで見ると、より一層。
男の手がこちらに伸び、身が固まる。
私の髪をかすめ、離れる手。見れば、その手には落ち葉が掴まれていた。
「これからも、よろしく頼む。苦労をかけることもあるだろうが、無理のないよう」
すらりとしたその姿が、屋敷の奥へと消えていく。あの口ぶりからすると、彼は偉い人なのかもしれない。
粗相はなかっただろうか。今更、不安になる。しかし、失礼を働いていたとしても、終わったことは仕方がない。
箒で落ち葉の山をつつく。ぴーぴーと、空を飛ぶ鳥が笑い声をあげた。
「娘さん、新入りかい?」
不意にかけられた声に振り向けば、恰幅のいいお兄さんが、こちらへ手を差し出してきた。その手を見れば、丁寧に巻かれた紙が握られている。
「手紙だよ。宛先のお方によろしくな」
それを受け取ると、お兄さんは大きく笑みを浮かべて、颯爽と去っていった。彼は配達員さんだったらしい。
誰宛の手紙だろうと、紙を回し宛名を見る。しかし。
「よ、読めない」
筆で記された流れるような文字は、私にとっては文字ではない。
形の雰囲気で、平岡さん宛なのだろうと推測し、彼の部屋へ向かう。文字が読めないというのは、なんとも不便だ。
「平岡さん。お手紙が届いているんですが、平岡さん宛で間違いないでしょうか」
部屋で何やら作業をしていた平岡さんは、手を止め手紙を受け取る。そして、手紙と私の顔をじっと見比べた。
「文字が読めないのか」
おもむろに頷く。途端に、申し訳なさと恥ずかしさが肥大化し、胸を圧迫した。
「文字が読めねば不便だろう」
「すみません」
今の私は、何もできない新入社員だ。いや、それよりも断然に酷い。
元の世界ならば、それなりの仕事を任せられるようになっていたというのに。
「どの程度読める」
渡された和綴じの本を、パラパラとめくる。少しざらついたそれは、持つ手に緊張を与えてくる。
中には、墨で手書きされた文字と、味のある絵が並んでいる。その雰囲気から察すると、内容は専門書の類ではなく、物語らしい。
「正直に言うと、ほとんど読めないです。これなら、まだ漢詩のほうが読みやすいと……」
「漢詩?」
「文字が繋がっていると、どこまでが一文字なのかすら……」
「……なかなか面白い視点だが、そんな事を言ってきたのは、お前が初めてだ。基本的に、文字はそうして繋げて書く。それが普通だ、俺たちにとっては」
その『普通』は、私には通じない。
普通という概念は、大多数の人間と、その枠に当てはまらない少数派がいてこそ成り立つのだ。その大多数が『普通』となり、少数は弾かれる。
「お前は、頭は悪くないはずだ。文字を覚えるのは、そう難しくはないだろう」
そうは言うが、前途多難なような気がしてならない。
「書けるようになるまで、時間がかかりそうです」
「書けなくても、読むことさえ覚えればいい。書く機会はそうないだろう。必要があれば、代筆でも頼めばいい」
平岡さんの言うことは正しい。
だが、それでも。
「書けた方が、便利ですよね。私、書けるようになりたいです」
「……ほう」
ただでさえ出来ないことが多いのに、文字を書くという今まで当然に出来ていたことが覆るのが、精神的にきつい。
それに、少しでも出来ることを増やし、役に立ちたい。
「ならば、この筆を貸そう」
目の前に差し出される筆。反射的に受け取ると、平岡さんは私の隣に腰を下ろした。
「本を開きなさい」
戸惑いつつも、言われるままに従う。すると、平岡さんは文字を指で追いながら、静かな声を響かせた。
「――初め里見氏の安房に興るや、徳誼以て衆を率ゐ、英略以て堅を摧く。二總を平呑して、之れを十世に傳へ、八州を威服して、良めて百將の冠たり」
「…………」
「何を呆けている。書き写しなさい」
はっと、我に返る。紙を広げ、筆を握り直した。
「手だけではいかん。復唱しながら、耳、手、全身で覚えるんだ」
頷きながら、持ちなれない筆で字を連ねる。よたよたと力のない字だが、今は文字の上手さなど気にしていられない。
「間違っているぞ」
平岡さんは、小さく息を吐き出す。
申し訳なさに襲われていると、平岡さんのごつごつとした大きな手が、こちらに向けられた。
「筆を貸しなさい」
固まっている私の手から筆を取り、平岡さんは字をするすると描いていく。
「これは、ここから繋げて……」
線が文字となり、紙面を飾る。私に芸術センスはないが、これにはそういった魅力を感じた。
「分からないところがあれば、すぐに言うように。そのままにすると、後々辛くなるからな」
頷いて、手本のとおりに筆を動かす。
部屋を包む墨のにおい。時間を忘れさせてしまう魔力が、その香りにはある気がする。




