京都編二⑥_きみの世界のことを聞かせて
「今日は一日、お疲れ様。ゆっくり休んでね」
おやすみなさい、と布団をかぶる音に、自分もならう。この世界で過ごす、二度目の夜である。
瞼が重い。体には、鉛のような重さがのしかかっている。
時計の秒針の音すらない、完全な静寂。目を閉じれば、しんとした暗闇に包まれる。自分の鼓動だけが耳に響いて、頭が痛くなる。
じわりと胸に広がりだす、まとわりつくような重い感情。この感情は、一体何だろう。落ち着かず、無意識のうちに寝がえりを繰り返した。
思い出せない記憶。なぜ、私はここにいるのか。
私はどれだけ覚えていて、どれだけを忘れているのか。記憶が曖昧であることが、これほど気持ち悪いことだとは思わなかった。
怖い。だんだん、元の世界のことをすべて忘れてしまいそうで。
何もかも忘れてしまえば。それは、元の世界での自分が存在しなくなることに等しい。
私が私でなくなる。記憶が全て消えれば、私は一体、何者になるのだろう。
私が私でいられないのなら、私の生きる意味は、どこにあるのか。私がここにいる理由など――
「え、わ……」
不意に、体に何かが乗る感覚がした。
ぎょっとして見れば、黒い猫が、私のお腹の上にいる。
暗闇に溶ける漆黒の毛に、月のように薄く光る黄色の瞳。じっと、私を静かに見下ろしている。
「猫?いつの間に、部屋の中に入ってきたんだろう」
隣の布団がもぞもぞと動き、渋沢さんが顔を出す。その声は、寝起きらしく少しかすれていた。
「すみません、起こしてしまって」
「ううん」
月明りに照らされ、きらきらと反射する艶やかな毛並み。
手を伸ばし、猫の首元に触れる。ふわふわでしっとりとした手触りである。
猫は逃げることもなく、ただなされるがままでいる。随分、人馴れしているようだが。
「この子、屋敷で飼っている猫ですか?」
「いや」
迷い猫なのだろうか。
上半身を起こせば、猫は身軽に体の上から退く。そしてそのまま、格子の窓の隙間から、外へ飛び出ていった。
再び、夜の静寂が部屋を包む。それでも、手に残った柔らかな毛の感触が、私を寂しくはさせなかった。
「寝れなかったの?」
「少し、眼が冴えてしまって」
渋沢さんは寝ころんだまま、こちらを見上げている。
表情は見えない。それなのに、私を心配しているということは分かってしまう。
「不安?」
あ、と声が漏れる。このくすぶったような、胸のもやもやの正体に気づいた。
これは、不安だったのだ。
「急に環境が変わったんだから、仕方ないよ。……大丈夫、いつか家に帰れるから」
安心させるようなその言葉に、頷くことができない。私は、本当に帰れるのか。
焦りや苛立ちのような、嫌な感情がぶりかえす。夜の暗闇が、静けさが、心の中をかき乱してゆく。
「もし、ずっと帰れなかったら」
一人も知り合いのいない世界、命が危険に脅かされる世界。こんな世界で、私は生きていけない。
大して人生を楽しんでいるわけではなかった。だが、あの生ぬるい平和な世界が恋しかった。
それに。
「もし、帰れたとしても……」
帰れたその時、その世界は私の知る世界のままであってくれるのだろうか。この世界で何か変化があって、未来が書き換わるようなことがあったとすれば。
日本が、様変わりしている可能性があるのではないか。もっと言えば、私の存在が消え去られているなんてことがあるのではないか。
もし、そうだったとしたら。
考え始めると、落下するような勢いで悪いほうへと傾いてゆく。
じわりと、熱いものが目から零れ落ちた。
「今日も、大変だったでしょ。よく頑張ったね」
突然の言葉に、思考が固まる。
何も言えずにいるうちに、隣でごそごそと布団が動く音がする。渋沢さんが起き上がったらしい。
暗闇の中で、見えない瞳と目を合わせる。
「慣れない環境で、不安も恐怖もあったと思う。それでも、きみは精一杯頑張ってるから、えらいよ」
不意に、何かが崩れる感覚がした。堰を切ったように、涙があふれ出て止まらない。
口を開けば情けない声が出そうで、ただ唇を噛む。
私はどうしてしまったのだろう。止めたいのに、壊れた涙腺は私の意思など全く考慮してくれない。
「うん、つらいよね」
そんなに優しい言葉をかけないでほしい。ただでさえぐしゃぐしゃになっている頭が、余計にまとまらなってしまう。
私は、私は。
「この世界に生きてちゃいけない人間なんです」
「…………」
「私、もっと先の、100年以上未来の日本で生まれたんです。それなのに、何故かここにいて」
頭がおかしくなったと思われるだろう。わずかに残った冷静な部分が、そう気づいている。
しかし、涙と同じように、止めるすべもなく唇から言葉は零れ落ちてゆく。
「私の常識なんて一切通用しなくて、殺されかけるし、帰り方もわからないし、そもそも帰れるのかどうかなんて分からない。
少し記憶もなくなってるみたいで、わけが分からないし、このまま自分の世界のことも自分のことも全部忘れてしまうんじゃないかって。もう、どうしたらいいのか」
こんなこと、渋沢さんに言っても仕方がない。
分かっている。分かっているのだ。
「……そっか。きみは、未来の日本から来たんだね」
ぽつりと呟かれた言葉に、目を見張る。まさか。
「信じるんですか、私のこと」
「きみの言葉を全部信じるなんて言っちゃ、逆にきみが僕のこと信じられなくなちゃうかもだけど」
選ぶように、ゆっくりと紡がれる言葉。
「正直なところ、信じられない気持ちもある。でも、納得できちゃうんだよね」
ただ固まったまま、渋沢さんの言葉を聞く。
「不思議だなって思ってたんだよ。なんでもそつなくこなす器用さはあるのに、きみの中の知識だけが抜け落ちたみたいで。
それに、きみは今まで出会った人の、どの人とも違う。もちろん、人はみんなそれぞれ違うけれど、それでもある程度性格とか思想とか……『こういう人』って分けられるものだと思うんだけど。でも、きみはどこの枠にも収まらない。
それは、きみが別の世界で生きてきたからだったんだね」
淡く差す、月の光。涙でぼやけた視界が、私をじっと見つめている瞳を映す。
「すごいなあ。きみは、未来の日本を知ってるのか」
止まりかけていた涙が、ぼろぼろと溢れ出す。訳も分からない感情が胸に湧き上がり、抑えられそうになかった。
「必ず、元の世界に返してあげるからね」
何か言わなければと思うものの、口を開けば嗚咽しか出ないだろう。
「僕には想像もつかないくらい、きみは辛いんだと思う。それを一つでも、減らせればいいんだけど」
渋沢さんと目が合う。その目は、しっかりと私を映している。
「ねえ、きみの世界の話を聞かせてほしいな。きみが、どんなものを見てきたのか。どうやって生きてきたのか。
知りたいって思ってる。きみのこと」
「…………」
いつの間にか、涙は止まっている。渋沢さんの言葉に、ただぽかんと呆けたようにその黒い瞳を見つめることしかできなかった。
「ああ、あんまり未来の話は聞いちゃいけないのかな。未来に影響があったらだめだもんね」
無神経だったかな、と渋沢さんは眉を下げるが、そんなことはない。溢れかけていた涙を抑え込んで、首を横に振る。
「大して面白い話はできないかもしれないですけれど、それでもよければ」
「うん、ありがと」
渋沢さんはへへ、と小さく笑う。私も、少しだけ笑った。
「毎晩、少しずつ。きみの世界のことを聞かせて」
きっとそうすれば、私は私を忘れない。
記憶は、不思議なものである。こうして会話した記憶は、双方に残る。
私の中には、渋沢さんが。渋沢さんの中には、私が残っている。
少なくとも、今この瞬間は、私は確かに存在していると、そう言い切れる。
そして逆も然り、渋沢さんも、確かにここにいる。
「きみは、元々京都の人じゃないんだよね。どの辺りに住んでたの?」
「今で言う、江戸の方です」
「そっか、煌びやかなところにいたんだね。あれ、未来でも江戸は賑わってるのかな」
「はい、とても」
「そうなんだ。ねえ、未来ではどんな食べ物があるの?」
「多分、今ここにあるものと変わらないものも多いです。ごはんもおうどんもお蕎麦もありますし、ないもののほうが少ないかもしれません。
でも、たくさん種類が増えていると思います。ここには洋食がないので」
「洋食?」
「西洋から入ってきた料理です。私の世界では、いつでもどこでも食べられるくらいには流通していました」
「西洋の料理か……想像つかないや。きみは、好きな食べ物とかあるの?」
「基本的に、甘いものは全部好きです。お菓子は毎日食べていました」
「そっか、毎日甘いお菓子を食べられる世界なんだね。そっちには、どんなお菓子があるの?」
「お饅頭もお煎餅も、今もあると思いますけど、同じように未来にもありますよ。ここになさそうなもので言えば、洋菓子とか。
チョコレート、クッキー、キャンディ。甘くて、とっても美味しいですよ」
「ああ……そうだよね、外国にもお菓子があるんだよね。いつか、食べてみたいな」
会話が進む。時間が進む。私がここにいるという記憶が、一秒一秒、刻まれてゆく。
奇妙な温もりと安心感。
夜の空気が、私の頭を撫でた気がした。
本作はノベルゲーム原作を小説版に書き下ろしたものです。
ゲームプレイ(無料)はプロフィール等からご確認ください。




