第9話 宣告
放課後の屋上は、八月なのに、少しだけ空気が冷たかった。
氷渡セツナは、フェンスの前に立っていた。夕方の風に髪をなびかせて、絵になる立ち姿で。教室のみんなが見たら歓声を上げるだろう。でも僕のうなじの警報は、屋上の扉を開けた瞬間から、鳴りっぱなしだった。
「来たのね。逃げると思ってた」
「……逃げたら、どうなってたんですか」
「家まで届けに行っただけよ、この続きを」
セツナは指先で、宙に何かを描いた。
空気が、ぱきり、と音を立てた。
彼女の指先から氷の薄片がひらひらと生まれて、蝶の形になって、僕の目の前を舞った。魔法とか術とか、そういう言葉を頭が処理するより先に、綺麗だな、と思ってしまった。
「単刀直入に言うわ。真昼ケイくん――真昼家十六代目後継者」
氷の蝶が、僕の鼻先で静止した。
「氷渡家は、当主戦の作法に則り、あなたに『継承権の譲渡』を要求します」
「けいしょうけんの、じょうと」
「あなたの刻印を、わたしに渡して。そうすれば誰も傷つかない」
セツナの声は、契約書を読み上げるみたいに滑らかだった。
「安心して。氷渡家は真昼家の『人』には興味がないの。刻印さえ貰えれば、あなたとお母様が人間として暮らす分には、干渉しない。悪い話じゃないでしょう?」
「…………」
「あなた、この世界のことを先週知ったばかりなんですって? だったら、背負う理由もないじゃない。生まれつき手に握らされてただけの、重たい荷物よ。降ろしなさいよ」
……正直に言う。
一瞬、揺れた。
降ろしていいなら降ろしたい。僕はいじめられっ子で、断れない性格で、魔界とか当主とか、どう考えても荷が重い。刻印を渡して全部元通りになるなら、それは。
――潜伏の資格を失った家は魔界に強制送還だ。
ヴィムの声が、頭の中で響いた。
「……一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「刻印を渡したら、うちは『真昼家』じゃなくなるんですよね。それって、母さんはどうなるんですか。人間の母さんは」
セツナの completeな微笑みが、初めて、一ミリだけ揺れた。
「……当主戦の裁定に従うわ」
「答えになってません」
「――裁定は、氷渡家が決めることじゃないの」
「つまり、『どうなるかわからない』ってことですよね」
自分でも驚くくらい、声が冷静だった。ヴィムの宿題のおかげかもしれない。相手をよく見ること。言葉の裏の「言ってないこと」を見ること。
彼女は今、嘘をつかなかった。つけなかったんだ。「お母様は安全よ」と言い切ってしまえば楽なのに、この人は、確約できないことを確約しなかった。
……ヴィムさんの言う通りだ。
完璧に礼儀正しくて、完璧に容赦がなくて――たぶん、根っこは、誠実な人なんだ。
「答えは、決まりました」
僕は、氷の蝶を指でそっと押しのけた。
「渡しません。……渡せません」
「――そう」
セツナは目を伏せた。残念そうでも、怒っているのでもなく、ただ、予定表の項目に印をつけるみたいに。
「なら、作法通りに進めるわ。真昼ケイくん、氷渡家後継・氷渡セツナは、あなたに当主戦を申し込みます」
彼女が指を鳴らすと、氷の蝶が砕けて、文字になった。宙に浮かぶ、氷でできた果たし状。
『三日後、日没。決闘場は当日、氷渡家が設える。後継者本人同士の一対一。介添人の同席を認む』
「三日あげる。逃げてもいいけど、逃げた場合は『譲渡』と見なされるから」
セツナは僕の横を通り過ぎて、屋上の扉へ歩いていく。
すれ違いざま、彼女は足を止めた。前を向いたまま、小さな声で言った。
「……最後に忠告。あなた、さっき一瞬、渡そうか迷ったでしょう」
「っ」
「次に迷ったその瞬間、あなたは負ける。わたしたちの世界で、優しさは――隙って呼ばれるのよ」
扉が閉まった。
夕方の屋上に一人残された僕の手の中で、氷の果たし状だけが、いつまでも冷たかった。




