第8話 氷渡家
「――で、その転校生に『よろしくする気はない』と言われた、と」
その夜、僕の部屋の窓枠に腰かけたヴィムは、報告を聞き終えると、珍しくプリンに手をつけないまま黙った。
「名前は」
「氷渡セツナさん、です」
「氷渡ォ?」
ヴィムは天井を仰いで、心底面倒くさそうな声を出した。
「よりにもよって、一番手があそこかよ」
「し、知ってるんですか」
「魔界十三家が一つ、氷渡家。氷結の術じゃ十三家最強。ついでに言うと、頭のかたさと仕事の丁寧さでも最強だ。あの家の連中は、決めた獲物は絶対に逃がさねえ」
獲物。
その単語が僕を指していることに気づくまで、数秒かかった。
「え、じゃあ、あの人が僕を……こ、殺しに?」
「まだわからん。だが十中八九、目的はお前の刻印だ」
ヴィムは僕の右手を顎で示した。
「言ったろ、お前は先月から『椅子』になった。当主不在の家の刻印は、他家の後継者が奪える。奪えば真昼家の席と財産と権利は丸ごと氷渡のもんだ」
「せ、席って、奪われたらうちはどうなるんですか」
「消える。家ごと」
あっさりと、ヴィムは言った。
「潜伏の資格を失った家は魔界に強制送還だ。お前も、お前の母さんもな。……人間界のパート主婦が魔界で暮らせると思うか?」
母さんの、台所に立つ背中を思い出した。
十年間、心の準備をして待っていた人。あの人の日常が、僕の手の甲の紋様ひとつにぶら下がっている。
「……なんで、そんな大事なこと、僕が決められる立場に」
「生まれってのはそういうもんだ。理不尽だよな」
ヴィムは否定しなかった。慰めもしなかった。ただ事実だけを置いて、それからようやくプリンの蓋を開けた。
「まあ、慌てるな。氷渡はルールに忠実な家だ。闇討ちはしてこねえ。仕掛けてくる時は、必ず正式な手順を踏む」
「正式な、手順?」
「そのうち嫌でもわかる。それより坊ちゃん、今日の観察の宿題は?」
「あ……はい。ええと」
僕はノートを開いた。ヴィム流教育の新しい宿題は「一日一人、誰かをよく見て気づいたことを書く」だった。今日の観察対象は、成り行き上、氷渡セツナになった。
「彼女、完璧すぎるんです」
「ほう」
「英語も数学も運動も完璧で、誰にでも笑顔で……でも、変なんです。休み時間、女子の輪の中心にいるのに、自分の話を一回もしてない。全部、聞き役と相槌で回してる。あと」
僕はノートの端の走り書きを読んだ。
「笑う時、目が先に笑って、口が後から笑います。普通、逆だと思う。あれはたぶん……鏡の前で、練習した順番です」
部屋が、静かになった。
顔を上げると、ヴィムがスプーンをくわえたまま、まじまじと僕を見ていた。
「な、なんですか」
「……いや。やっぱりお前、そっちの才能は化け物だわ」
「褒められてる気がしない!」
「褒めてんだよ。――で、坊ちゃん。その観察が正しいなら、答えはもう出てるだろ」
ヴィムはスプーンで僕のノートを指した。
「笑顔を練習で作る奴ってのは、どういう奴だ?」
「……笑顔を、作らなきゃいけない環境で育った、人」
「そういうことだ」
ヴィムは窓の外の夜空を見た。北の空を、値踏みするように。
「氷渡の刺客は完璧だ。完璧に礼儀正しく、完璧に容赦がない。……ただな、坊ちゃん。完璧ってのは、そう『在る』んじゃねえ。そう『させられてる』んだ」
その横顔が、ほんの一瞬だけ、遠くを見た気がした。
「覚えとけ。お前がこれから戦う相手は、怪物じゃねえ。――お前と同い年の、家の道具にされてる子供だ」
翌日。
下駄箱を開けると、僕の靴の上に、一枚のカードが置かれていた。
半透明の、薄い氷でできたカードだった。触れても冷たいのに、溶けない。表面には、見たことのない紋章と、流れるような達筆でこう彫られていた。
『放課後、屋上にて。 ――氷渡』




