第7話 完璧な転校生
氷渡セツナが転校してきて三時間で、彼女は学園の頂点に立った。
誇張ではない。
一時間目の英語で、ネイティブの先生と冗談を言い合った。二時間目の数学では、先生が解けなかった別解をさらりと板書した。休み時間には女子の輪の中心にいて、体育のバレーでは、たぶん本気の一割も出さずにエースになった。
完璧、という言葉を人間の形にしたら、ああなるんだと思う。
「なあなあ、氷渡さんってどこから来たの?」
「北のほうです。……ふふ、寒いところ」
窓際の席で、彼女は微笑む。教室の温度が二度くらい上がる。
僕はといえば、教室の反対側の隅で、朝からずっと、うなじを押さえていた。
――ちりちり。ちりちり。
鳴りやまないのだ。ヴィムの罠で覚えたあの警報が、彼女が教室に入ってきた瞬間から、ずっと。
最初は転校生への緊張かと思った。でも違う。この感じは知っている。丸太が飛んでくる直前、花瓶が倒れる直前の、あの「殺意の予鈴」と同じ種類の音だ。
それが、朝からずっと鳴っている。
小さく、細く、絶え間なく。まるで――ずっと観察されているみたいに。
……考えすぎだ。そうであってくれ。
あんなに完璧で、あんなにきれいな人が、僕なんかを気にする理由がない。ヴィムの特訓のせいで神経が過敏になってるんだ。きっとそうだ。
僕は自分にそう言い聞かせて、弁当を持って席を立った。今日は屋上近くの階段で一人で食べよう。教室にいると、うなじが落ち着かない。
廊下に出て、角を曲がる。
その瞬間、うなじの音が――消えた。
ぴたりと。スイッチを切ったみたいに。
僕は足を止めた。背中に、じわりと嫌な汗が浮く。
警報が消えたということは、observationが終わったということで、observationが終わったということは、つまり今の今まで、本当に――。
「……真昼、ケイくん」
声は、真後ろから降ってきた。
僕は跳び上がりそうになるのを堪えて、振り向いた。
氷渡セツナが立っていた。
教室であれだけ人に囲まれていたはずの彼女が、音もなく、僕の三歩後ろに。
「ひ、氷渡……さん。えっと、僕に、何か」
「ふふ。自己紹介がまだだったから」
彼女は微笑んでいた。教室で見せていたのと同じ、完璧な微笑み。
ただし、目が違った。
教室では春の日差しだった瞳が、今は真冬の湖面だった。きれいなことに変わりはない。ただ、温度だけが、決定的に違う。
「あなた、この学校で一番『普通』ね」
「……はあ。よく、言われます」
「成績は真ん中より下。運動も苦手。友達は少なくて、頼まれると断れない。三日前までは、いじめられていた」
「な……」
なんで、それを。
転校初日の人間が知っているはずのないことを、彼女はすらすらと、天気の話みたいに並べた。
「でも、変ね」
セツナは一歩、距離を詰めた。廊下の窓から入る昼の光の中で、彼女の吐く息が――八月なのに、白く、かすんだ気がした。
「三日前から、あなた、歩き方が変わってる。死角を消す歩き方。それ、誰に教わったの?」
「…………」
「まあ、いいわ。答え合わせは、すぐだもの」
彼女はくるりと踵を返した。それから、思い出したように、肩越しに振り向いた。
「ね、真昼くん。わたし、転校initialの挨拶で一つだけ、嘘をついたの」
「……嘘?」
「『よろしくお願いします』」
氷の目が、笑った。
「――よろしくする気は、ないの。ごめんなさいね」
彼女は廊下の向こうへ歩き去った。すれ違う男子たちが振り返り、彼女は彼らには春の微笑みを返していた。
僕は階段の踊り場にへたり込んで、弁当箱を抱えたまま、しばらく動けなかった。
うなじの警報は、もう鳴っていない。
でも、わかってしまった。ヴィムの特訓で「いつもと違うもの」に気づく訓練を積んだ僕には、もう、わかってしまった。
あの人の完璧は、作り物だ。
春の微笑みの下に、研ぎ澄まされた冬がある。そしてその冬は、今日、僕だけに牙の先を見せた。
――近いうちに、お前を殺しに来る奴が出る。
ヴィムの言葉が、頭の中で反響していた。




