第6話 一錠目
転校生の噂で教室がざわついていた日の放課後、それは起きた。
「おい真昼、ノート」
「あ……ごめん、今日は、ちょっと」
明日は小テストがある。僕だって勉強したい。というか、僕のノートを写して僕より点を取るのは、いくらなんでもどうかと思う。
「は? 聞こえねえんだけど」
鈴木くんは僕の机に腰を乗せて、僕の数学のノートを勝手に取り上げた。ぱらぱらとめくって、面倒くさそうに鼻を鳴らす。
「字ぃ細かくて写しにくいんだよな、お前の。もっと読みやすく書けよ」
「…………」
「あと購買もな。明日から購買のパンな、俺の分も金お前が――」
ぶちり、と。
僕の中で、何かの糸が切れる音がした。
いや、違う。切れたんじゃない。この三日間、朝五時に叩き起こされて、丸太を避けて、花瓶を避けて、バケツを避けて、「昨日より死ににくくなった」と言われ続けて――僕の中に、糸よりずっと太いものが、一本、通ってしまっていたのだ。
僕は、立ち上がった。
自分でもびっくりするくらい、静かに。
「――自分で、やりなよ」
「……あ?」
「ノートは、自分で取りなよ。パンも、自分で買いなよ。僕は」
声が震えた。でも、止まらなかった。
「僕は、鈴木くんの『ついで』じゃない」
教室に残っていた数人が、こっちを見ていた。鈴木くんの顔が、驚きから、屈辱に、それから怒りに変わっていくのが、スローモーションみたいによく見えた。
ああ、殴られるな、と思った。
思ったのに、不思議と怖くなかった。丸太のほうが速いし、ヴィムの威圧のほうが百倍怖い。目の前で振り上げられた腕は、はっきり言って――遅かった。
僕は避けなかった。避けられたけど、避けなかった。ここで避けたら、なんだか、違う気がした。
拳は、僕の頬をかすめて――止まった。
「……っだよ、それ」
鈴木くんの声が、変だった。
「なんだよ、その目……! 気持ちわりぃんだよ!」
彼はノートを床に叩きつけて、教室を出ていった。乱暴な足音が廊下の向こうに消える。
残された僕は、膝ががくがく震えていることに、そこで初めて気づいた。今更のように心臓が暴れ出す。言った。言ってしまった。ああ、明日からどうなるんだろう。
でも。
床に落ちたノートを拾い上げた自分の右手を見て、僕は息を呑んだ。
手の甲に、金色の紋様が浮かんでいた。
十三重の鎖。十三の錠前。その一番外側の錠が――ほんのわずかに、光を灯していた。開いてはいない。でも、確かに、鍵穴のあたりが熱を持って明滅している。
紋様は数秒で消えた。夕方の教室で、僕はひとり、自分の手の甲を眺め続けた。
◇
「――言い返したか。三日で」
その頃。
校舎の屋上の給水タンクの上で、ヴィムはプリンを食べる手を止めて、眼下の教室棟を見ていた。
「カナメ。お前の息子、面白いぞ」
誰にともなく呟いて、スプーンをくわえる。
魔力ってのは、肚から湧く。
技でも血でもなく、「自分はこうする」と決めた肚の据わり方が、錠を開ける鍵になる。それが真昼家の刻印の仕組みだ。教えてやってもいいが、教えたら意味がなくなる。ああいうのは、自分で開けるから価値がある。
「……ん」
ふと、ヴィムは顔を上げた。
街の北の空。夕焼けの向こうから、糸のように細い魔力の気配が、するすると近づいてくるのを感じた。冷たく、澄んで、研がれた気配。若いが、鍛えられている。
ヴィムはプリンの容器を置いて、目を細めた。
「――早えな。もう嗅ぎつけたか」
気配の質から、家の見当はついた。氷渡。十三家の中でも、頭のかたさと術の精度で有名な、氷の名門。
「刺客の一番手が氷渡家、ねえ」
ヴィムはごろりと仰向けになって、茜色の空を見上げた。
「坊ちゃんの初戦にしちゃ――重すぎだろ、それは」
その口元は、けれど、どこか楽しそうに笑っていた。
翌朝。
教室の戸が開いて、担任が言った。
「今日から、このクラスに転校生が来ることになった」
廊下から入ってきたその人は、窓からの朝の光を全部味方につけたみたいに、きれいだった。
「氷渡セツナです。よろしくお願いします」
教室が、どっと沸いた。
その中で僕だけが、たぶん世界で僕だけが、凍りついていた。
うなじが――ちりちりと、鳴りやまなかったから。




