第56話 氷の眠り
屋敷の一番奥。
母の部屋の、さらに向こう。
僕が三日間、一度も通されなかった廊下の先に、その部屋はあった。
襖には、氷渡の家紋。取っ手には、指一本ぶんの霜が、八年ぶんの厚みで積もっていた。
その霜が、今、溶けていた。
「――お父様」
セツナが、襖の前で立ち止まった。
僕は、その三歩後ろにいた。ここまで来るのに、氷柱に肩を借りた。血は止まったが、まだ立っているのがやっとだった。
「セツナ様」
氷柱が、囁いた。
「開けてよろしゅうございます。……八年、あなた様だけが、開けてはならぬと言われてきたのです」
セツナの手が、震えていた。
彼女は、その手を一度握り込んで、それから、襖を引いた。
◇
部屋の中は、明るかった。
光源はない。壁も、天井も、床も、透き通った氷でできていて、その氷そのものが、内側から青白く光っていた。
中央に、一人の男が座っていた。
白髪。痩せた頬。氷渡の羽織。膝の上に両手を置いて、背筋を伸ばして――八年間、そのままの姿勢で。
その体を包んでいた氷が、足元から、静かに崩れていた。
男が、目を開けた。
「……セツナ」
掠れきった、声だった。
八年、一度も使われなかった喉の声だった。
「――大きく、なったな」
セツナは、動かなかった。
動けなかったんだと思う。
やがて、彼女の膝が折れた。畳の上に、崩れるように座り込んで、両手で顔を覆った。
「……お父様」
「うん」
「お父様、お父様……!」
氷渡ソウゲツは、震える手を伸ばして、娘の頭に置いた。
その手のひらが、八年ぶんの重さで、ゆっくりと下りるのを、僕は廊下から見ていた。
◇
「――なぜ、目覚められました」
ザクロが、廊下で膝をついたまま、問うた。
「八年、いかなる術も、いかなる呼びかけも、届きませんでした。医者も、術者も、他家の者も」
「ザクロか」
ソウゲツは、娘の頭を撫でながら、目を細めた。
「よう、家を保ってくれた」
「――お叱りを」
「叱らぬ」
「わたくしは、セツナ様を」
「知っておる」
ザクロの言葉が、途切れた。
「眠っておっても、氷は聞いておるよ。この屋敷の氷は、全部、わしの氷だ」
ソウゲツは、部屋の氷の壁に、そっと触れた。
「二年前の会議の夜。おぬしが机に紙を伏せて、八日、動かなんだこと。九日目に、震える手で申請を書いたこと。……全部、聞いておった」
「……なにゆえ、お止めくださらなんだ」
「止められなんだ」
当主は、静かに言った。
「わしは、目覚められなんだのだ。八年、ずっと」
「なにゆえ」
「――この氷は、わしが眠るための氷ではない」
ソウゲツは、自分の手のひらを見た。
「封じるための氷だ」
部屋が、静まり返った。
「ミオが逝ったあの日。わしの氷は、暴れた」
彼は、目を伏せた。
「屋敷の結界が、内から破れかけた。四十二の分家が総出で押さえて、それでも足りなんだ。……当主の氷が、当主の悲しみで、家を壊しかけた」
僕は、庭のあの松を思い出した。
四百年、凍ったまま、守られてきた木。
「だからわしは、自分ごと凍らせた」
ソウゲツは、娘を見た。
「六つのそなたを、置いて。……解ける条件を、一つだけ残して」
「……条件」
「氷渡の氷が」
彼は、言った。
「――家のためでない理由で、振るわれること」
セツナが、顔を上げた。
「四百年、この家の氷は、家のためだけに振るわれてきた。結界のため。序列のため。格のため。……そういう氷では、この封は解けん」
ソウゲツは、僕のほうを見た。
初めて、その視線が、廊下の僕に届いた。
「今宵、闘技場で」
彼の目が、少しだけ細くなった。
「わしの娘は、誰のために氷を張った」
セツナは、答えられなかった。
だから、僕が答えた。
「――僕の、足元です」
声が、掠れた。
「三メートルだけくださいって、僕が言ったんです。そしたら氷渡さんは、その三メートルの、床だけ取りました」
ソウゲツは、しばらく僕を見ていた。
それから、ほんの少しだけ、笑った。
痩せた頬に、皺が寄って、その笑い方は――驚くほど、セツナに似ていた。
「……そうか」
彼は、目を閉じた。
「八年ぶりに、うちの氷が、人の足元を守ったか」




