第55話 認めぬ
闘技場が、凍りついた。
比喩ではなかった。ザクロを中心に、氷の床が、ばきばきと音を立てて盛り上がっていく。二か月前、決闘場で見たのと同じ、岩盤みたいな魔力。
「ザクロ様!?」
「なにゆえ――!」
観覧席が沸いた。今度は、明らかな動揺のざわめきだった。
僕は、その中で、一つだけ気づいたことがあった。
――ザクロは、膝をついたままだった。
立ち上がっていない。裁定を否定する男が、その相手の前で、膝をついたままでいる。
「氷渡セツナ」
彼は、頭を垂れたまま、言った。
「本祭は、そなたを後継から外すために開いた」
観覧席が、しん、となった。
当主代行が、四百人の前で、それを認めた。
「二年前、十三家会議にて、氷渡は序列を三つ落とすところであった。当主不在の家は家にあらず、と。……その席で、わしは何も言い返せなんだ」
彼の指が、氷の床を掻いた。
「同じ年、分家四十二のうち二十七から嘆願が出た。『半分人間の後継は戴けぬ』と。……わしは、その紙を、八日、机に伏せて置いた」
僕は、氷柱の言葉を思い出していた。
――ザクロ様は、その二十七の嘆願に、ただ一人、名を連ねておられません。
「九日目に、わしは当主戦の申請を書いた」
ザクロは、顔を上げた。
その顔を見て、僕は息を呑んだ。
石じゃなかった。
この人の顔は、ずっと、割れないように固めてあっただけだ。
「勝てば、家は格を得る。負ければ、後継の座が正当に空く。……どちらに転んでも、氷渡は残る。そう計算した」
「ザクロ」
「そなたを、勘定に入れなんだ」
彼は、言い切った。
「十四のそなたを、勘定の外に置いた。それがわしのやったことだ。……八年、当主の代わりを務めた男が、最後にやったのが、それだ」
闘技場は、静かだった。
降る雪が、青い炎の中を、音もなく落ちていた。
「だから、裁定を認めぬ」
ザクロは、深く、頭を下げた。
「――こんな祭りで、そなたの座が決まってよいはずがない」
◇
誰も、動けなかった。
僕も、動けなかった。
この人は、自分の八年を、四百人の前で、自分で壊したのだ。
「……ずるいわ」
最初に口を開いたのは、セツナだった。
「ずるいわよ、ザクロ」
彼女の声は、震えていた。
「そんなの、今更聞かされたら……わたし、あなたを恨めないじゃない」
「恨むがよい」
「恨めないって言ってるでしょう!!」
セツナが、叫んだ。
完璧な令嬢が、四百人の前で、腹の底から。
「あなた、わたしが六つの時、蔵の前に座ってたじゃない!!」
ザクロの肩が、跳ねた。
「お父様が三晩、襖越しに昔話をしてくれた。……四晩目もあったのよ。お父様は来られなくて、代わりに誰かが座ってた。何も喋らないで、朝までずっと」
彼女は、涙を拭わなかった。
「あれ、あなたでしょう」
ザクロは、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「――なんで黙ってるのよ」
「……分家の者が、本家の姫の夜伽をした、などと」
「そういうところが嫌いなのよ、あなたの!!」
闘技場の、どこかで。
誰かが、鼻をすする音がした。
一人ではなかった。二人、三人、十人。四十二の分家の、あちこちで。
僕は、なんとなく、わかった気がした。
この四百人は、たぶん、ずっと知っていたのだ。
半分人間の姫を、憎まれ役になって守ってきた男が、この家に一人いることを。知っていて、誰も、何も言えないまま、八年経ったのだ。
◇
「――当主代行」
僕は、口を開いた。
声が、掠れて、ほとんど出なかった。それでも、擂り鉢の底は、よく響いた。
「一つだけ、聞いていいですか」
「……真昼家当主」
「あなたが守りたかったのは、氷渡家ですか」
ザクロが、僕を見た。
「それとも、この家の中にいる人ですか」
石の男は、長いこと、答えなかった。
やがて、彼は、庭のほうを――闘技場の外、屋敷の方角を、見た。
その先には、四百年、凍ったまま守られてきた松がある。
「……わしは」
彼の声は、ほとんど聞き取れなかった。
「わしは、あの木を、枯らしとうなかった」
その時だった。
闘技場の氷が、鳴った。
りん、と。
鈴ではなかった。氷そのものが、床から、壁から、観覧席から、一斉に、細く高く鳴った。
四百人が、一斉に空を見上げた。
雪が、止まっていた。
いや――止まったのではない。
降っていた雪が、空中で、止まっていた。
闘技場の上に、何万という雪片が、一つも落ちずに、静止していた。
「……なに、これ」
僕の隣で、セツナが呟いた。
そして、ザクロが、ゆっくりと立ち上がった。
その顔から、血の気が引いていた。
「――嘘だ」
彼は、屋敷の方角を見ていた。
「八年だぞ。八年、一度も」
「ザクロ? どうしたの」
「――お目覚めになった」




