第54話 いらないので
僕は、シグレの横にしゃがみ込んだ。
しゃがみ込んだというより、膝が勝手に折れた。
「……大丈夫、ですか」
「大丈夫じゃない」
シグレは、仰向けのまま、雪の降る空を見ていた。
「腹、めっちゃ痛い」
「すみません」
「謝るなよ。……勝負だろ」
彼は、腕で目元を隠した。
「――負けた」
「はい」
「十年、姉さんに一回も勝てなくて。……最後は、姉さんの友達にも負けた」
「はい」
「ほんと、最悪」
僕は、血だらけの手を、彼の前に差し出した。
「――不良品なんかじゃ、ないです」
シグレの腕が、下りた。
「あなたも。氷渡さんも」
僕は、続けた。
「四本目まで、僕、死ぬところが一つもありませんでした。腕と、脇腹と、腿と、肩。全部、痛いだけのところです。……あれ、狙ってやったんですよね」
シグレの目が、揺れた。
「あんな精度で急所を外せる人が、不良品なわけないでしょう」
「……っ」
彼は、顔を歪めた。
それから、僕の手を、掴んだ。
「――う、あ」
声にならない声だった。
十六歳の少年が、氷の床の上で、両手で顔を覆って、泣いた。四百人の前で、みっともなく、しゃくり上げて。
その隣に、セツナが座った。
何も言わずに、ただ、彼の頭に手を置いた。
◇
雪が、少し弱まった。
「――裁定を述べる」
ザクロの声が、闘技場に落ちた。
四百人が、席に戻った。
「氷雪祭決勝、勝者・真昼ケイ。……よって、氷渡家後継の座は」
彼は、そこで止まった。
止まらざるを得なかったのだと思う。
勝者は、氷渡の血を一滴も引いていない、他家の当主だった。
四百年、使われなかった条項を四百年ぶりに使ったら、こうなったのだ。
「――当主代行」
僕は、立ち上がった。
立ち上がるのに、セツナに肩を借りた。
「あの、すみません。一つ、いいですか」
「……申されよ」
「僕、氷渡家、いらないので」
闘技場が、ざわめいた。
いや、ざわめきというより、四百人が同時に息を吸った音だった。
「客将条項って、代わりに戦う制度ですよね。だったら、勝ちも、代わりに取ったぶんです。……僕のものじゃないです」
僕は、隣を見た。
「氷渡セツナさんに、返します」
セツナが、僕を見た。
「……真昼くん」
「もともと、君のものです」
僕は、笑おうとした。うまく笑えたかどうかは、わからない。
「僕は、友達の家に遊びに来ただけなので」
◇
沈黙は、長かった。
やがて、観覧席の一番下から、一人の老人が立ち上がった。
氷柱だった。
「――当主代行に、申し上げます」
彼は、深く頭を下げた。
「客将の勝ちは、伴った候補者の勝ちと見なす。第九条の後段に、そう記されております」
ザクロが、目を閉じた。
「……四百年、誰も読まなかった条文だ」
「四百年、誰も使わなかったゆえに」
老使者は、顔を上げた。
「読んでおりましたのは、たった二人でございます。……初代様と、六つの頃のセツナ様だけで」
僕は、隣を見た。
セツナが、口を押さえていた。
「……あなた、まさか」
「言ってないわ!」
「言ってないんですか!?」
「シグレが勝手に持ち出したのよ! わたしは何も!」
闘技場の氷の上で、シグレが、しゃくり上げながら言った。
「……書庫、俺も、入れるし……鍵の場所、姉さんが、六つの時に、俺に教えたし……」
「――シグレ!!」
「うるさいな、泣いてるんだから話しかけるなよ!!」
四百人の中の、誰かが、吹き出した。
その笑いは、ゆっくりと、擂り鉢の壁を上っていった。
やがて闘技場は、四百年ぶりに――たぶん、四百年ぶりに、笑い声で埋まった。
◇
「――氷渡セツナ」
ザクロの声が、その笑いを断った。
セツナが、背筋を伸ばした。
「はい」
「前へ」
彼女が、闘技場の中央へ歩み出た。
僕は、動けなかった。動いたら倒れる自信があった。
ザクロは、階段を降りてきて、彼女の前に立った。
そして。
――彼は、氷の床に、片膝をついた。
四百人が、息を呑んだ。
「氷渡家当主代行・氷渡ザクロ。……氷雪祭の裁定を、ここに」
彼の声が、初めて、掠れた。
「認めぬ」




