第53話 発生点
人は、氷を「飛んでくるもの」として見る。
だから、飛んでくる線を読もうとする。壬生の氷は線が長かった。だから僕にも読めた。シグレの氷は線がほとんどない。だから読めない。
でも。
線が短いということは、線が始まる点は、必ず、彼の手のすぐそばにあるということだ。
――そこだけを、見る。
僕は、飛んでくる刃を見るのをやめた。
自分の体を裂いていく氷を、全部、視界から追い出した。
残したのは、シグレの右手の、指先から十センチの空間だけ。
四歩目。
その空間で、魔力が、ちり、と粒立った。
――視えた。
氷が刃の形になる、その、ほんの一瞬前。
魔力が集まって、濃くなって、輪郭を持ちかける、コンマ何秒か。
二か月前の僕には、絶対に視えなかった。三日前の僕にも、たぶん視えなかった。
叫び続けた三時間と、血だまりの十歩が、この一瞬を僕に寄越した。
「五歩目」
僕は、右に半歩ずれた。
シグレの刃が、僕が今までいた場所を、空しく裂いた。
「――!?」
六歩目。
左手の発生点。粒立つ。ずれる。空振り。
七歩目。
両手。同時。二つの点。僕は、その両方の間に、体を差し込んだ。
「なっ、なんで――!!」
八歩目。
もう、シグレの顔が、はっきり見える距離だった。
二メートル。
彼の目が、限界まで見開かれていた。
「見えてる」
僕は言った。
「――氷になる前が、見えてます」
九歩目。
シグレが、後ろに跳ぼうとした。
跳べなかった。
彼の足元の氷が、白く盛り上がって、踵を掴んでいた。
セツナだった。
闘技場の縁で、彼女が指を立てていた。
――三メートルだけ、と僕は言った。三メートルだけくれ、と。
この人は、その三メートルの、床だけを取った。
「ずっるいなあ、姉さん!!」
シグレが、笑いながら叫んだ。
泣きながら、笑っていた。
「二人がかりじゃん!!」
「客将条項は、あなたが持ち出したのよ!」
「そうだけど!! そうなんだけど!!」
十歩目。
僕は、シグレの懐に入った。
一錠目。身体強化。
二か月前、いじめっ子に初めて言い返した夜に、薄く光った錠。
二錠目。感知と、見切り。
三日前、河川敷で「半歩下がれ」と言われて、初めて届いた距離。
どっちも、僕が自分で開けたものじゃない。人に開けてもらったものだ。
――だから、こういう時に使う。
「――ごめん!」
僕は、拳を振り抜いた。
シグレの氷の刃が、真正面から砕けた。
破片が、青白い灯籠の光を弾いて、雪と一緒に、闘技場中に散った。
拳が、シグレの腹に入る。
彼の体が、浮いた。
◇
氷渡シグレは、闘技場の氷の上を、二度跳ねて、仰向けに倒れた。
立たなかった。
降る雪が、彼の頬の涙の跡に、静かに積もっていった。
闘技場は、無音だった。
四百人が、誰ひとり、声を出さなかった。
僕は、立っていた。
立っている、と自分でも思えなかった。膝から下の感覚がなくて、視界の半分が赤くて、たぶん、体のどこかが「もう倒れていい」と言っていた。
でも、倒れなかった。
――氷渡セツナが、こっちを見ていたからだ。
鈴が、鳴った。
りん、と。
雪の中に、その音だけが落ちた。
「――勝者」
ザクロの声が、擂り鉢の底に響いた。
彼は、そこで、初めて、言葉に詰まった。
この人が、詰まるのを、僕は初めて見た。
「――勝者、真昼ケイ」
その瞬間。
四百人が、一斉に、立ち上がった。




