第52話 十年ぶんの稽古
「――シグレ」
セツナの声だった。
彼女は、氷の壁を全部下ろして、闘技場の中央に歩いてきた。
「重いなら寄越せ、って、あなた、言ったわね」
「……言ったよ」
「一回も、言ってくれなかったじゃない」
シグレの肩が、跳ねた。
「十年、稽古したわ。週に三回、この闘技場で。あなたと、二人で」
セツナは、闘技場の氷を見た。
「わたし、あの時間だけが好きだったの」
「……は?」
「屋敷の中で、わたしを『セツナ様』じゃなく呼ぶのは、あなただけだった。負けても『もう一回』って言うのも、あなただけ。……分家の子が本家の娘に十年勝てなくて、それでも毎週来るなんて、普通じゃないわ」
彼女の声が、少しだけ揺れた。
「わたし、あれを、友達だと思ってたのよ」
シグレの刃が、音を立てて、氷の床に落ちた。
「……ずるい」
彼は、その場にしゃがみ込んだ。
「なんだよ、それ。今更、そんな……ずるいだろ」
「ずるいのは、あなたよ」
セツナは、彼の前に立った。
「不良品なんて呼んで。……ねえ、シグレ。あの言葉、誰から借りたの」
シグレは、答えなかった。
答えられなかったんだと思う。
僕は、観覧席のザクロを見た。
石みたいな男は、微動だにせず、闘技場を見下ろしていた。
◇
「――でも」
しゃがみ込んだまま、シグレが言った。
「でも、勝負は、まだ終わってない」
彼は、落とした刃を拾って、立ち上がった。
目は真っ赤で、鼻の頭も赤くて、それでも彼は構えた。
「話は終わり。俺は勝つ。……そうしないと、俺、一生、姉さんの隣に立てない」
「シグレ」
「姉さんこそ、手加減したら怒るからな!」
その啖呵が、あんまり子供っぽくて、僕は少し笑ってしまった。
笑ったら、鎖骨の下が痛んだ。
「――氷渡さん」
「なに」
「一つ、頼んでいいですか」
僕は、闘技場の氷を見た。
血だまりが、点々と、僕の歩いた跡を描いていた。歩数にして、たぶん十歩。四メートル進むのに、十歩かかった。
「あと三メートル、詰めます。……その三メートルだけ、僕にください」
セツナが、僕を見た。
彼女は、僕の血だらけの体を、上から下まで見て、それから――笑った。
あの、居間で見せるほうの顔で。
「わかったわ。……でも条件がある」
「なんですか」
「死んだら、許さない」
「はい」
「餃子、三時間かけて包んだのよ。冷凍してあるの」
「……食べます。絶対」
セツナが、退がった。
闘技場の中央に、僕とシグレだけが残った。
シグレが、へらへらと笑った。今度は、悪意のない笑い方だった。
「……いいの? 姉さん下がらせて。あんた、もう立ってるのがやっとでしょ」
「はい」
「三メートル入ったら、俺の間合いだけど」
「知ってます」
「死ぬよ?」
「殺す気なら」
僕は、もう一度、同じことを言った。
「――二本目で殺してますよね」
シグレの笑いが、止まった。
それから、彼は、目元を乱暴に拭って、構え直した。
「――上等」
鈴が鳴らなくても、僕たちは動いた。
僕は、一歩。
シグレの刃が、右の肩を裂いた。
二歩。
左の腕。
三歩。
脇腹。
僕は、歩き続けた。
二錠目が、頭の奥で、じん、と鳴っていた。
――見えない。読めない。シグレの魔力は、手元でいきなり弾ける。
なら、と僕は思った。
道筋が読めないなら。
――弾ける場所そのものを、見ればいい。




