第48話 客将
セツナが立ち上がるまで、たっぷり十秒かかった。
四百人の視線の中を、彼女は歩いた。氷の階段を降りて、闘技場の縁に立って、それから、ザクロを見上げた。
「――氷渡セツナ。当日の申し出により、氷雪祭への参加を求めます」
観覧席の声が、割れた。
怒鳴る者。立ち上がる者。「継承権を放棄したはずだ」と叫ぶ者。氷の席を叩く音が、雨みたいに降ってきた。
「放棄の申し出は、預かっただけだ」
ザクロが、その全部を、たった一言で沈めた。
「受理はしておらん。氷渡セツナは、いまだ本家の血である」
「ザクロ様!」
「異論のある者は、家訓を持って参れ」
誰も、動かなかった。
ザクロは、セツナを見下ろした。
その顔からは、相変わらず何も読み取れなかった。
「――理由を述べよ」
セツナは、背筋を伸ばした。
「継承権は、放棄しません」
彼女の声は、震えていなかった。
「三日前、わたしはこの家に罅を入れたくないと申しました。それは今も同じです。……ですが、順番を間違えていました」
彼女は、闘技場の氷を見た。
「罅は、わたしが出ていけば消えるものではありません。四百年、この家が『混じりものは濁る』と言い続けてきたこと。それを一度も確かめずに信じてきたこと。……罅は、そっちにあります」
観覧席が、しん、となった。
「だからわたしは、ここで氷を振ります」
セツナは、顔を上げた。
「氷渡セツナの氷が濁っているかどうか、四百人で確かめてください」
――かっこいい。
僕は、来賓席で、素直にそう思った。この人は本当に、いざという時の口上がうまい。三日前は僕の前で膝を抱えて泣いていたのに。
「……申し出、受理する」
ザクロが言った。
「候補は五名と――」
「待った」
今度は、別の声だった。
シグレだった。
彼は、闘技場の中央へ歩み出て、片手を挙げていた。
「父さん。ひとつ提案」
「シグレ」
「姉さんが出るならさ」
彼は、来賓席のほうを――僕を、指さした。
「――真昼家の当主も、出せば?」
三度目のざわめきは、これまでで一番大きかった。
「シグレ、それは」
「客将条項」
シグレは、はっきりと言った。
「氷雪祭の家訓、第九条。『候補者は、他家の者一名を客将として伴い、二人一組にて戦うことを得る』。……あるよね、父さん」
ザクロが、初めて、動揺らしきものを見せた。
「――四百年、一度も使われておらん条項だ」
「使われてないだけで、消えてないよね?」
「なぜ、それを持ち出す」
「だって」
シグレは、僕を見た。
その目は、もう笑っていなかった。
「姉さんは、真昼家に負けたんだ。負けたから資格を失った。……なら、その真昼を俺が倒せば、姉さんに勝つより上の証明になる」
彼は、闘技場の氷を、爪先で叩いた。
「俺は『棚ぼたで後継になった分家の子』にはなりたくない。姉さんを不良品呼ばわりしたまま、その姉さんが辞退した椅子に座るのも、まっぴらだ」
シグレは、ザクロに向き直った。
「――正面から、全部倒して座りたい」
闘技場が、静かだった。
僕は、この少年のことを、最初の日に誤解していたと思った。
彼は、意地の悪い言葉を選ぶのが上手いだけで、たぶん、この場の誰よりまっすぐだ。
「……真昼家当主」
ザクロが、僕を見上げた。
「聞いての通りだ。応じる義務はない。これは氷渡の内儀であり、あなたは客人である」
僕は、深く息を吸った。
喉が痛かった。膝はさっきからずっと笑っている。相手は十三家最強の家の、僕より確実に強い連中で、四百人が見ていて、ヴィムは氷室にいる。
僕は、階段を降りた。
一段。二段。氷が滑る。転びかけて、手をついた。観覧席のどこかで、誰かが失笑した。
闘技場の底に降り立って、僕は、雪の中で顔を上げた。
「――真昼ケイです」
声は、掠れていた。
「氷渡セツナさんの、客将として。……出ます」
セツナが、僕の隣に立った。
彼女は、前を見たまま、小さく言った。
「……ばか」
「はい」
「叫ぶだけって、言ったじゃない」
「言いました」
「なんで降りてくるのよ」
「そのほうが、近いので」
彼女は、何か言おうとして、やめた。
代わりに、氷の粒がひとつ、彼女の目尻から落ちて、地面に届く前に、ぱきん、と音を立てて弾けた。
「――組み合わせを述べる」
ザクロの声が、闘技場に響いた。
「氷雪祭。二人一組、二回戦形式。……四百年ぶりの客将戦を、ここに認める」




