第47話 氷雪祭開幕
日没の一時間前から、雪が降り始めた。
闘技場は、擂り鉢の底にあった。直径三十メートルほどの円。床は磨いた氷で、下から青白い光が滲んでいる。斜面をぐるりと囲む観覧席は、すべて氷を削り出したものだった。
そこに、人が埋まっていた。
「……何人いるんですか、これ」
「分家四十二。当主とその家族、それに随身」
隣に立つ氷柱が、静かに答えた。
「およそ、四百と少々でございましょう」
四百人。
全員が白装束か、氷渡の家紋を染めた羽織で、全員の息が白い。誰も喋らない。四百人が黙って座っている音というのは、こんなに重いものなのかと思った。
僕は、来賓席に通された。
闘技場の真南、一段高いところに設えられた席だ。座布団が一枚。周りには誰もいない。他家の当主が来るなんて誰も想定していなかったから、急ごしらえで作ったのだと、氷柱が申し訳なさそうに言った。
視線が、刺さっていた。
四百人ぶんの視線が、僕という異物を、ひとつ残らず数えていた。
「……ヴィムさん、どこ行ったんですか」
「先生様なら、氷室でございます」
「まだ氷室!?」
「『祭りの人混みは肩が凝る』と」
あの人は本当に、本当に自由だ。
◇
日が落ちた。
闘技場の縁に沿って、氷の灯籠に火が入る。青白い炎だった。熱がない。降る雪が、炎の中を溶けずに通り抜けていく。
中央に、ザクロが立った。
「――氷雪祭を、始める」
声は大きくなかった。なのに、擂り鉢の底から、四百人の耳まで、はっきり届いた。
「当主・氷渡ソウゲツ様は、氷の眠りにあらせられる。よって本祭は、当主代行・氷渡ザクロの名において執り行う」
彼は、懐から一枚の書付を出した。
「氷渡家の後継を、改めて定める。候補は分家より推挙されし四名」
四人の若者が、闘技場の四方から進み出た。
三人は、二十歳前後の男女。皆、静かで、隙がなくて、術者の目をしていた。
四人目が、シグレだった。
彼は、いつものへらへらした顔ではなかった。氷渡の羽織を正しく着て、背筋を伸ばして、真っ直ぐ前を見ていた。
「規則を述べる」
ザクロが続けた。
「一騎打ち。氷渡の術のみを用いる。闘技場の外に出た者、意識を失った者、降参を申し出た者を負けとする。……勝ち残った一名を、氷渡家後継とする」
僕は、観覧席の端に座るセツナを見た。
彼女は、来賓席から一番遠い場所にいた。
候補者の列ではなく、分家の列でもない。誰の隣でもない、一人ぶんだけ空いた席。
立ち会え、と書状には書いてあった。その通りの席だった。
――見ていろ、ということ。
彼女は、膝の上で両手を揃えて、まっすぐ闘技場を見ていた。完璧な姿勢だった。
僕は、その横顔から目を離せなかった。
昨日の夜、あの人は言った。怖い、と。三日前まで逃げる算段しかしてなかった、と。
なのに今、四百人の前で、あの人は一ミリも揺れていない。
揺れていないふりが、あんなに上手い人を、僕は他に知らない。
「――では」
ザクロが、書付を畳んだ。
「組み合わせを――」
「待ってください」
声が出た。
自分の声だった。
闘技場が、静まり返った。四百人が、一斉に来賓席を見た。
僕は、立ち上がっていた。膝が笑っている。喉はまだ潰れている。それでも、口は勝手に動いていた。
「あの、すみません。真昼家の、真昼ケイです」
誰も、何も言わなかった。
ザクロだけが、こちらを見上げていた。
「……真昼家当主。本祭は氷渡家の内儀にござる」
「はい。わかってます」
「ならば、御着席を」
「一つだけ、確認させてください」
僕は、震える手を握り込んだ。
「昨日、あなたは言いましたよね。――氷雪祭は、氷渡の血を引く者であれば、当日の申し出により参加を認める、と」
ざわり、と観覧席が波打った。
ザクロは、答えなかった。
だから僕は、もう一度言った。
「家訓に、そう書いてあるんですよね」
長い、長い沈黙のあと。
ザクロは、静かに言った。
「――書いてある」
闘技場が、爆発した。
四百人が一斉に声を上げ、氷の観覧席が軋み、雪がその音に押されて渦を巻いた。
僕は、闘技場の反対側を見た。
一人ぶんだけ空いた席で、氷渡セツナが、こちらを見ていた。
完璧な姿勢が、崩れていた。
目を見開いて、口を半分開けて、彼女は――呆然と、僕を見ていた。
僕は、彼女に向かって、頭を下げた。
「氷渡さん。無作法を、一つだけ」




