第46話 祭りの前の夜
氷雪祭の前夜、屋敷は静まり返っていた。
分家の人間は各々の宿坊に引き上げ、設営の使者も下がって、廊下には誰もいない。祭りの前というより、葬式の前みたいな静けさだった。
僕は、喉に巻いたタオルを押さえながら、縁側に出た。
やっぱり、先客がいた。
「……声、出るの?」
「ぎりぎりです」
我ながらひどい声だった。セツナが吹き出した。
「明日の本番で出なかったら、どうするのよ」
「その時は身振り手振りで」
「見てる余裕ないわよ」
「ですよね」
僕は、一畳ぶんあけて、隣に座った。
雪の庭。氷の松。青白い月。三日前と同じ景色なのに、ずいぶん違って見えた。
「……真昼くん」
「はい」
「明日、わたしが負けたら」
「はい」
「わたし、たぶん、この家に居られなくなるわ」
彼女は、膝を抱えていた。
「継承権を放棄した上で氷雪祭に出て、負ける。分家に散々騒がれて、それで負ける。……そうなったら、もう本当に、ここには居場所がない」
「はい」
「怖くないの、って聞いてほしいところなんだけど」
「怖いですか」
「怖いわよ!」
彼女は、膝に顔を埋めた。
「怖いに決まってるじゃない。……三日前まで、わたし、逃げる算段しかしてなかったのに」
僕は、なんと言えばいいかわからなかった。
大丈夫、とは言えなかった。勝てます、とも言えなかった。ヴィムが五分だと言ったのだ。五分は、半分負けるということだ。
だから僕は、こう言った。
「――負けたら、うちに帰りましょう」
セツナが、顔を上げた。
「……え?」
「うち、部屋あります。二階の南。カーテンも買っちゃったし」
「あなた、それ」
「母さんが、明日の夕飯は餃子にするって言ってました。氷渡さんの包み方でやるって聞かないんです。あの人、たぶん三時間かかります」
セツナの目が、みるみる潤んだ。
「……ずるい」
「ずるいですか」
「ずるいわよ。それを先に言われたら、」
彼女は、袖で目を押さえた。
「――負けても、いいみたいじゃない」
「よくないです」
僕は、はっきり言った。
「明日は勝ってください。勝って、あの人たちの前で、氷渡セツナは器じゃないって証明してください。……でも」
僕は、庭の松を見た。
「もし駄目だったとしても、君が帰る場所がなくなるわけじゃない。それだけは、先に言っておきたかったんです」
風が吹いた。
氷の枝が、ちりん、と鳴った。
セツナは、ずいぶん長いこと黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……ケイくん」
僕は、耳を疑った。
振り向くと、彼女は庭を見ていた。耳が、月明かりでもわかるくらい、赤かった。
「今、」
「言ってない」
「言いましたよね!?」
「言ってないわ。空耳よ」
「絶対言いました!」
「――明日、勝ったら、もう一回言ってあげる」
彼女は立ち上がって、羽織の裾を払った。
振り返った顔は、完璧な微笑みでも、泣き顔でもなかった。
ただ、真っ直ぐだった。
「だから、ちゃんと読んでよ。あなたの二語」
「はい」
「一語でも間違えたら、わたし、負けるからね」
「はい」
「――おやすみ、真昼様」
「おやすみなさい」
襖が閉まった。
僕は縁側に残って、しばらく庭を見ていた。
◇
屋根の上に、人の気配がした。
「……ヴィムさん」
「よお」
瓦の上に寝転がったヴィムが、片手を上げた。
「聞いてました?」
「全部な」
「趣味が悪いです」
「教師の職務だ」
彼は、月に向かって、プリンの空き容器を掲げた。
「――なあ、坊ちゃん」
「はい」
「お前、明日、なんで叫ぶんだ?」
妙な質問だった。
僕は、少し考えて、答えた。
「氷渡さんが、一人で戦わなくていいようにです」
ヴィムは、しばらく黙っていた。
それから、笑った。だるそうな、いつもの笑い方で。
「――そうか」
「変ですか」
「いや」
彼は、目を閉じた。
「――当主の顔だ、それは」
その言葉の意味を、僕はうまく飲み込めなかった。
もう一度聞こうとした時には、屋根の上の気配は、もう消えていた。
庭で、氷の松が、静かに月を弾いていた。
明日、日没。




