第45話 読む側
「――出るのはやめとけ」
ヴィムは、開口一番、そう言った。
場所は、屋敷の裏手の杉林。設営の喧騒が届かない場所を選んで、僕たちは特訓の場所を借りていた。
「ヴィムさん!?」
「勝ち目がねえ」
彼は、杉の根元に座って、プリンの蓋を開けた。四百年ものの氷で冷やしたやつだ。「人生が変わった」と本人は言っている。
「嬢ちゃん。お前、あのシグレってガキと稽古で何回やった」
「……数えきれません」
「勝率は」
「わたしの、十割です」
「そうだろうな」
ヴィムは、スプーンを咥えたまま頷いた。
「で、明日は負ける」
セツナの眉が、跳ね上がった。
「――どういう意味」
「稽古と、家の全部がかかった祭りは、別もんだって意味だ」
ヴィムは、プリンを一口食べた。
「お前の氷はな、嬢ちゃん。綺麗すぎる」
僕は、その言葉に、はっとした。
二錠目が開いてから、僕は人の魔力を「流れ」として感じられる。セツナの魔力は、いつも綺麗な川だ。真っ直ぐで、澄んでいて、どこを流れているか一目でわかる。
――一目で、わかる。
「あ」
「気づいたか、坊ちゃん」
「読まれるんだ」
「そうだ」
ヴィムは、僕を指さした。
「お前でさえ読めるもんを、十年一緒に稽古してきた相手が読めねえと思うか?」
セツナの顔から、血の気が引いた。
「……シグレは、わたしの道筋を」
「全部知ってんだろうな。だからあいつは『勝ちに行く』なんて言えた」
彼女は、握った拳を見た。
「じゃあ、どうすれば」
「濁せ」
ヴィムは、あっさり言った。
「はっ?」
「氷を濁せ。読めねえ氷を作れ。……つっても、十年で染みついた癖は三日じゃ抜けねえ」
「じゃあ無理じゃないですか!」
「無理だな。一人ならな」
ヴィムは、プリンの容器を置いた。
それから、僕を見た。
「――だから、坊ちゃん。お前が読め」
僕は、自分を指さした。
「……僕が?」
「嬢ちゃんの氷が読まれるのは変わらねえ。だったら、相手の氷を、こっちが先に読め。速さで勝てねえなら、順番で勝て」
僕は、二日前の朝を思い出した。
河川敷。五本目。「半歩下がれ」の一言で、急に届いた、あの感覚。
「――僕が読んで、氷渡さんが撃つ」
「そういうことだ」
セツナが、僕を見た。
「……でも、明日、あなたは闘技場に入れないわ」
「え?」
「氷雪祭は氷渡家の内儀よ。他家の当主が立ち入れるのは観覧席まで。介添人にもなれない」
僕は、少し考えた。
それから、言った。
「じゃあ、声だけでいいですか」
「……声?」
「観覧席から、叫びます。届く距離ですよね」
セツナが、絶句した。
「……あなた、他家の内儀で、他家の当主が、観覧席から大声を出すことの意味を」
「無作法ですよね」
「無作法どころじゃ――」
「無作法ってのは」
ヴィムが、僕たちの間に割り込んだ。
「――時々、作法より強い」
セツナが、口を閉じた。
ヴィムは立ち上がって、パーカーの砂を払った。
「よし。じゃあ練習だ」
「何のですか」
「叫ぶ練習に決まってんだろ」
◇
結論から言うと、それは地獄の三時間だった。
僕が読んだ「相手の術の道筋」を、瞬時に、短い言葉に変えてセツナに投げる。それだけ。それだけなのに、まったくできない。
「右斜め上から、たぶん三本、いや四本、扇形に――」
「長い!!」
氷の礫が僕の頬をかすめた。ヴィムが撃っている。教育である。
「一言だ、坊ちゃん。二語まで。人間はな、三語目から耳が遅れる」
「二語!?」
「『上、四』でいい」
「そんな短くて伝わりま――」
「伝わるわ」
セツナが言った。
彼女は、汗を拭いながら、目だけは真剣だった。
「『上、四』。それだけで、わたしは扇型の四本を潰す氷を張れる。……足りない情報は、こっちが埋めるから」
僕は、彼女を見た。
彼女も、僕を見ていた。
「……信じてくれるんですか。僕の二語を」
「信じるわよ」
セツナは、当たり前みたいに言った。
「あなた、わたしに嘘ついたことないもの」
夕方まで、僕たちは杉林で叫び続けた。
日が暮れる頃には、僕の喉は潰れていて、セツナの制服は泥だらけで、ヴィムはプリンを六個空にしていた。
最後の一本。
僕が「左、二」と叫んだ瞬間、セツナの氷が、僕の視界の左側だけを、寸分の狂いもなく塞いだ。
ヴィムの氷礫が、その壁に当たって、砕けた。
杉林が、静かになった。
「――ようやく、七割ってとこだな」
ヴィムは、あくびをした。
「本番までに八割まで行けば、まあ、五分五分だ」
「五分!?」
「上出来だろ。三日前は零だぞ」
ヴィムは、空になった容器を積み上げながら、思い出したように付け足した。
「――ああ、それとな、坊ちゃん」
「はい」
「明日、お前が闘技場に降りる羽目になった時のことも、考えとけ」
僕は、間抜けな声を出した。
「え? 僕、入れないんですよね」
「四百年、誰も入ってねえだけだ。入れねえとは誰も言ってねえ」
彼は、フードの下から僕を見た。
「読む練習は無駄にならん。相手の道筋が見えるってのはな、嬢ちゃんに教えるためだけの力じゃねえ。――見えたところに、自分の足で入っていけるってことだ」
僕は、自分の手のひらを見た。
二か月前、階段で足を引っかけられていた手。三日前、河川敷でセツナの氷壁に激突した手。
「……僕が、戦うんですか」
「知るか。可能性の話だ」
ヴィムは、大あくびをした。
「ただな。可能性ってのは、考えてなかった奴のところにだけ、間の悪い顔で来る」




