第44話 家を残す
ザクロは、闘技場にいた。
屋敷の北側、雪の斜面を削って作られた擂り鉢状の場所だ。設営の使者たちに指示を出しながら、彼は氷の観覧席の傾斜を、指一本で確かめていた。
「――ザクロさん」
僕が呼ぶと、彼は振り返らずに答えた。
「明日は雪になる。客人は屋内からご覧いただく」
「二年前のこと、教えてください」
指が、止まった。
使者たちが、一斉に僕を見た。
「……何のことか」
「当主戦の申請控えを見ました」
嘘はつけなかった。つく気もなかった。
周りの使者がざわめいた。ザクロは、ゆっくりと振り返った。
「本家書庫は、当主と代行のみ立ち入りを許される」
「はい。無断で入りました。すみません」
「――謝罪は不要だ」
彼は、氷の階段を降りてきた。
僕の前に立つと、この人はやっぱり大きかった。見上げると、首が痛くなる。
「無作法の詫びは、無作法で返せばよい。……真昼家当主。あなたは何を見た」
「二年前の申請と、一年前の実行命令です」
「そうか」
「なんで一年、寝かせたんですか」
ザクロは、答えなかった。
僕を見下ろして、しばらく黙って、それからひとこと。
「――明日は、日没からだ。遅れぬように」
背を向けて、歩いていった。
僕はその場に立ち尽くした。何も引き出せなかった。
「……あの」
背後で、声がした。
振り返ると、白装束の老使者が立っていた。昨日、うちの玄関に現れた男だ。氷柱と呼ばれていた。
「立ち話も何ですので。……お茶など、いかがですかな」
◇
氷柱の茶は、ぬるかった。
「氷渡の屋敷では、熱い茶は出さぬのです」
彼は言った。
「湯気が立ちますとな、結界の氷が曇る。四百年、この家ではぬるい茶しか飲めません」
僕は湯呑みを両手で包んだ。少しも温かくならなかった。
「――二年前」
氷柱は、庭を見たまま言った。
「十三家会議にて、序列の見直しがございました」
僕は顔を上げた。
「氷渡家は、長く上位六家に数えられておりました。氷結の術は十三家最強。異論を挟む者はおりませなんだ。……ただ一つ、当主が不在という一点を除いて」
「氷の眠り」
「左様。八年でございます」
氷柱は、指を八本、膝の上で数えた。
「当主なき家は、家にあらず。二年前の会議で、そう申した家がございました。氷渡は序列を三つ落とすところでございました」
「……落ちたら、どうなるんですか」
「氷渡の分家は、四十二ございます」
彼は、静かに言った。
「序列が落ちれば、いくつかは他家に鞍替えいたしましょう。人が減れば、結界を回す術者も減る。術者が減れば、この寒さが保てなくなる。……この寒さが緩めば、御神木の氷が解けます」
僕は、庭の白い松を見た。
四百年、凍ったまま守られてきた木。
「氷が解ければ、あの松は――四百年ぶんの時間を、一度に受け取ることになります」
「……枯れる」
「左様」
氷柱は、湯呑みを置いた。
「ザクロ様は、その会議からお戻りになった夜、一睡もなさいませんでした。そして翌朝、当主戦の申請を書かれた」
「……セツナさんを、差し出すために」
「格を上げるためでございます」
老人の声は、責めるでも庇うでもない、ただの報告の声だった。
「当主不在を補うには、当主戦で格を得るほかない。……そしてもう一つ。分家四十二のうち、二十七が、その年に嘆願を出しております」
「嘆願」
「『半分人間の後継を戴くことはできぬ』と」
僕は、湯呑みを取り落としそうになった。
「ザクロ様は、両方を一枚の札で片づけられました。セツナ様が勝てば、家は格を得て、分家の口も塞がる。負ければ――後継の座は、正当な手続きで空く」
「そんなの」
声が、勝手に震えた。
「そんなの、ただの、どっちに転んでも自分が損しない賭けじゃないですか」
「はい」
氷柱は、あっさりと認めた。
「あの方は、家を残すためならば、何を削っても構わぬと決められた方でございます。……ご自身の名も、含めて」
その言い方に、僕は引っかかった。
「自分の、名も?」
「ザクロ様は、四十二の分家のうち、二十七の嘆願に、ただ一人、名を連ねておられません」
氷柱は、静かに立ち上がった。
「――老いぼれの世迷い言でございます。お聞き流しくださいませ」
白い息を残して、彼は去っていった。
僕は、ぬるい茶を持ったまま、庭の松を見ていた。
あの人は、悪人じゃない。
悪人じゃないほうが、たぶん、ずっと厄介だ。




