第42話 寝かされた札
扉が、開いた。
寝間着姿のシグレが、片手に湯呑みを持って、そこに立っていた。
「うわ、ほんとに姉さんだ。……あと、当主様まで」
僕は完全に硬直していた。セツナは、氷の玉の光を消すこともせず、シグレを見返していた。
「……夜番に、言うの?」
「言ったほうがいい?」
「聞かないでよ」
「じゃあ言わない」
シグレは、あっさり言って、扉を後ろ手に閉めた。
そのまま文机まで歩いてきて、湯呑みを置き、綴じ本を覗き込む。
「へー。当主戦の申請控えじゃん。何調べてんの」
「シグレ」
「あ、俺のこと疑ってる? 顔に書いてある」
彼は、へらへらと笑った。
「安心してよ。俺、こんな夜中に本読める頭してないから。厠に起きただけ」
その言い方が、あまりに軽くて、僕は逆に警戒を解けなかった。
でも――彼が申請控えの日付を見た瞬間の顔だけは、演技には見えなかった。
「……あれ」
シグレの笑いが、止まった。
「なんで二年前?」
「あなたも、知らないの」
セツナが、静かに聞いた。
「知らないよ。俺が聞いてるのは、去年の話だもん。父さんが『真昼家に当主戦を仕掛ける。出るのはセツナだ』って言って、分家中がざわついて」
シグレは、指で日付をなぞった。
「……二年前って、俺ら十四じゃん。姉さんが披露目やった年だろ」
僕は顔を上げた。
「披露目?」
「後継のお披露目よ」
セツナが答えた。
「氷渡家では、十四で正式に後継として認められる儀があるの。分家全部を集めて、当主が――お父様は眠っておられたから、代行のザクロが――『これが次の氷渡である』と告げる」
「その年に、申請が出てるんですね」
「……ええ」
書庫が、静かになった。
僕は、頭の中で線を引いた。
二年前、セツナが後継として披露目を受けた。その同じ年に、ザクロは彼女を差し出すための札を用意した。
一年、寝かせた。
そして、切った。
「……ひどくない?」
ぽつりと言ったのは、シグレだった。
僕は、驚いて彼を見た。
シグレは、綴じ本を見下ろしたまま、口の端を歪めていた。さっきまでのへらへらした顔が、どこかへ行っていた。
「披露目の年だよ? 分家全員の前で『これが次の氷渡だ』って言った、その年に」
「シグレ」
「なに、俺は事実を言ってるだけ」
彼は、湯呑みを取って、一口飲んだ。
「……俺さ、姉さんのこと嫌いだよ」
率直すぎて、誰も何も言えなかった。
「本家に生まれただけで後継で、術の才能もあって、分家の連中が全員頭下げてさ。俺がどんだけ稽古しても、『分家の子にしてはよくやる』で終わるんだ。……そりゃ嫌いになるよ」
「シグレ、わたしは」
「でもさ」
彼は、セツナの言葉を遮った。
「嫌いなやつを落とすのに、こういうやり方するの、俺は嫌だ」
言い捨てて、彼は扉のほうへ歩いていった。
「……シグレ」
「明後日、俺は出るから」
振り返らずに、彼は言った。
「氷雪祭。俺、勝ちに行くよ。分家の候補として、正々堂々」
扉に手をかけて、そこで一度、止まった。
「――だから姉さんも、出れば」
「え」
「出て、俺に勝てば? そしたら誰も文句言えないでしょ。『罅の入った器』とか言われたくないなら、目の前で割れないとこ見せればいいじゃん」
彼は、肩越しに、にっと笑った。
その笑い方は、初めて、悪意の匂いがしなかった。
「ま、無理だと思うけどね。姉さん、俺に一回も勝ったことないし」
扉が閉まった。
残された書庫で、セツナが、呆然と立っていた。
「……あの子」
「氷渡さん」
「あの子、六つの頃から、一度もわたしに勝ってないのよ」
「え?」
「稽古で。一度も。……なのに、なんであんな嘘を」
僕は、閉まった扉を見た。
そして、なんとなく、わかった気がした。
あれは、挑発の形をした、招待状だ。
「氷渡さん」
「なに」
「あの人、たぶん、君に出てほしいんですよ」
セツナは、答えなかった。
彼女は、綴じ本をそっと閉じて、元の棚に戻した。
それから、書庫の扉のほうを見て、小さく――本当に小さく、言った。
「……生意気」
その声が、少しだけ、笑っていた。




