第41話 不法侵入の作法
「言っておきますけど」
深夜二時。真っ暗な渡り廊下を、僕は腰を屈めて進んでいた。
「これ、不法侵入では」
「そうね」
前を行くセツナは、まったく速度を落とさなかった。
「氷渡家の本家書庫に、他家の当主が無断で侵入。露見すれば十三家会議ものよ」
「怖いこと言わないでください!」
「しっ」
彼女の手が、僕の口を塞いだ。
角の向こうを、提灯の灯りが通り過ぎていく。夜番の使者だ。二人、無言で、規則正しい足音。
灯りが遠ざかると、セツナは手を離して、当たり前みたいに歩き出した。
「……氷渡さん」
「なに」
「手際、良すぎませんか」
「六つから十二まで、週に二回はやってたもの」
「常習犯!?」
「本を読みたかったの。それだけよ」
彼女は、渡り廊下の柱の陰で立ち止まり、床板を三枚、指で数えた。四枚目を、軽く踏む。
かたん、と音がして、床板が浮いた。
中から、黒い鉄の鍵が出てきた。
「……なんでそんなところに」
「初代が隠したのよ。四百年前に」
「四百年前の隠し場所を、六歳児が見つけたんですか!?」
「初代の日記に書いてあったの。書庫にね」
「書庫に入るための鍵の場所が、書庫の中!?」
「そう。だから最初の一回だけは、天窓から入ったわ」
僕は、この人に対する認識を根本から改めることにした。
◇
書庫は、思ったより狭かった。
両側の壁一面が棚で、天井まで巻物と綴じ本が詰まっている。中央に文机がひとつ。空気は、氷と紙と埃の匂いがした。
セツナは、迷わず右奥の棚に向かった。
「当主戦の申請控えは、代ごとに綴じてあるの。……お父様の代は、これ」
厚い綴じ本を引き出して、文机に広げる。
僕は、彼女の手元を照らした。懐中電灯は持ってきていない。セツナが指先に灯した、小さな氷の玉が、青白く光っていた。氷で明かりが作れるらしい。
紙をめくる音だけが、書庫に響いた。
「……あった」
彼女の指が、止まった。
僕は、覗き込んだ。
和紙に、几帳面な筆で、こう書かれていた。
『当主戦申請控』
『対象――真昼家』
『理由――真昼家継承の刻印の譲渡要求』
『後継者――氷渡セツナ』
そして、その下。
申請者の欄に、押された朱の印。
『氷渡ザクロ』
「……ザクロさんが」
僕は、思わず声に出した。
「氷渡さんが申し込んだんじゃ、なかったんですか」
「わたしは……命じられただけよ」
セツナの声が、細かった。
「一年前の冬に。『真昼家へ出よ』と。理由は聞かなかった。……聞くものじゃないから」
「一年前?」
僕は、書面に目を戻した。
右上に、日付があった。
その日付を見て、僕は動きを止めた。
「氷渡さん」
「なに」
「これ、一年前じゃないです」
セツナが、覗き込んだ。
彼女の呼吸が、止まった。
日付は、二年前だった。
正確には、二年と四か月前。
「……嘘」
セツナの指が、その日付をなぞった。
「二年前……わたし、十四よ。まだ術も半人前で、当主戦なんて出られる歳じゃ」
「命じられたのは一年前でしたよね」
「ええ」
「じゃあ、申請してから、一年以上」
僕たちは、顔を見合わせた。
書庫の空気が、いっそう冷たくなった気がした。
「――寝かせてたんだ」
僕は言った。
「申請だけ先に通して、一年以上、寝かせてた。……そんなことできるんですか」
「できるわ」
セツナは、青い顔で頷いた。
「当主戦の申請は、受理されてから三年以内に実行すればいいの。……いつ切るかは、申請した家の自由」
「じゃあザクロさんは、二年前に札を作っておいて」
「一年前に、切った」
彼女は、綴じ本の縁を、両手で握りしめた。
「――なんで」
「なんで、その一年だったんでしょうね」
僕は、二年前と一年前の間に何があったのかを考えて――そして、思い出した。
昨日、この屋敷で聞いた言葉を。
「氷渡さん。お父さんが『氷の眠り』についたのは、いつですか」
セツナが、こちらを見た。
氷の玉の光の中で、彼女の顔が、真っ白になっていた。
「――八年前よ」
合わない。
僕は、眉を寄せた。八年前なら、二年前の申請とは、時期がずれる。
「じゃあ、二年前には、何が」
その時。
書庫の扉の向こうで、床板が鳴った。
規則正しくない、たった一人分の足音だった。
僕とセツナは、同時に息を止めた。
足音は、扉の前で止まった。
そして、聞き覚えのある、へらへらした声がした。
「――なーにやってんの、姉さん」




