第39話 負けた道具
その夜、僕は眠れなかった。
客間の布団は、ふかふかで、糊の匂いがして、そして氷みたいに冷たかった。何枚重ねても、底のほうから冷えが上がってくる。
諦めて起き上がり、廊下に出た。
月が出ていた。雪の庭が、青白く光っていた。
その縁側に、先客がいた。
「……眠れないの?」
セツナだった。
寝間着に厚手の羽織を重ねて、膝を抱えて座っている。息が白い。
「寒くて」
「そう。慣れよ、それは」
「慣れました?」
「十六年かかったわ」
僕は、彼女から一畳分あけて、縁側に腰を下ろした。
庭の松が、月の光を弾いていた。
「……さっきの」
セツナが、庭を見たまま言った。
「好きか嫌いかなんて、聞かないでほしかった」
「すみません」
「謝らないでよ。……ずるいわ、あなた」
彼女は、膝に顎を乗せた。
「好きに決まってるじゃない」
小さな声だった。
「あの松ね、六つの頃に一度、枝を折ったの。登ろうとして。……大騒ぎになって、分家中が集まって、わたしは三日、蔵に入れられたわ」
「三日!?」
「でもね、その三日、お父様が毎晩来たの。蔵の外に座って、襖越しに、氷渡の昔話をしてくれた。初代がどうやってこの松を植えたか。どうして氷渡は壊す術じゃなくて留める術なのか。……三日ぶんの話を、わたし、全部覚えてる」
白い息が、月に溶けた。
「好きよ。この寒い家が。……だから、罅を入れたくないの」
「氷渡さん」
「わたしは、負けた道具なの」
彼女は、僕の言葉を遮った。
「作られて、研がれて、使われて、そして――折れた。それだけのこと。折れた道具が、道具箱の中で場所を取っていたら、迷惑でしょう」
僕は、しばらく黙っていた。
言いたいことは、いくらでもあった。君は道具じゃない。折れてない。うちに帰ろう。母さんが待ってる。餃子を包もう。
でも、そのどれも、たぶん彼女には届かない。
この人は十六年、この理屈の中で生きてきた。僕が二か月で用意した言葉が、十六年に勝てるわけがない。
だから、僕は別のことを言った。
「――僕、君に負けてほしくて勝ったわけじゃないです」
セツナが、こちらを見た。
「あの日、僕が立ち上がったのは、君が泣きそうな顔で戦ってたからです。君を折るためじゃない。……なのに僕が勝ったせいで、君が『折れた道具』になるなら」
僕は、自分の膝を見た。
「――それ、僕が一番、我慢できないです」
風が吹いた。
庭の氷が、ちりちりと鳴った。
セツナは、何も言わなかった。ずいぶん長いこと、何も言わなかった。
「……あなたは」
やっと出てきた声は、掠れていた。
「あなたは、いつもそう。人の理屈の、真下を掘るのね」
「掘ってますか」
「掘ってるわ。上から論破されたら言い返せるけど、下から掘られたら、立ってられないでしょう」
彼女は、羽織の袖で、乱暴に目元を拭った。
「……でも、駄目よ」
「駄目ですか」
「駄目。掟は掟。負けたのは事実。事実は動かないもの」
「はい」
「わかってくれた?」
「いえ」
僕は立ち上がった。
「事実が動かないなら、事実のほうを調べます」
「……は?」
セツナが、ぽかんと僕を見上げた。
「さっきから、ずっと引っかかってることがあるんです」
僕は、庭の白い松を見た。
「どうして氷渡家は、僕なんかに、後継者本人を差し向けたんですか」
「……なにを言って」
「十三家最強の家でしょう。うちは最弱です。刻印の錠は十三個ぜんぶ閉まってて、僕は魔力の使い方も知らなかった」
二か月前の自分を思い出す。パシリで、断れなくて、階段で足を引っかけられていた自分。
「そんな相手に、四百年罅を入れてない家が、いきなり『後継者本人』を出しますか?」
セツナが、息を呑んだ。
「使者を送って、書状一枚で継承権を要求すれば済んだかもしれない。分家の誰かを寄越してもよかった。……なのに、なんで君だったんですか」
「それは……氷渡は、決めた獲物は逃がさない家だから、確実に――」
言いながら、彼女の声が、だんだん細くなった。
自分の言葉を、自分で疑い始めた声だった。
「……確実に、獲るなら」
彼女の唇が、震えた。
「……本家の、後継者を、出す必要は」
「ないですよね」
月が、雲に隠れた。
庭が、暗くなった。
「――氷渡さん。明日、屋敷の中を、少し見せてもらえませんか」




