第37話 不良品
襖が開いた瞬間、部屋の温度がもう一段下がった。
氷渡ザクロ。
当主戦の日、決闘場の桟敷にいた男だ。あの日は遠目にしか見ていなかった。近くで見ると、印象は変わらなかった。石だ。四角い顔、四角い肩、四角い感情。表情筋というものを、この人は道具箱の奥に仕舞ってしまったんだと思う。
その後ろから、シグレがへらへらとついてきた。
「真昼家当主。よくおいでくださった」
ザクロは、畳に膝をついて、深く頭を下げた。
完璧な礼だった。指の先まで揃っていた。
なのに、僕は――一ミリも歓迎されていないと、はっきりわかった。
「あの、突然すみません。真昼ケイです。あの、氷渡さんに、その」
だめだ。まったく言葉が出てこない。
「友達なので、ついてきました」
結局、それしか言えなかった。
ザクロは顔を上げて、僕を見た。
それから、ほんのわずかに、眉が動いた。
「……友達」
「はい」
「当主戦の勝者が、敗者を」
「掟のことは、氷渡さんに教わりました。でも僕、家門とかそういうのは、断ったので」
部屋の隅で、案内の使者が息を呑む音がした。
シグレが、ぷっと吹き出した。
「断った? 掟を? へえ、真昼家って自由なんだ」
「シグレ」
「だってさ、父さん。聞いた? 姉さん、預かってももらえてないってよ」
その一言に、僕は反応が遅れた。
シグレはにやにやしながら、セツナのほうを向いた。
「かわいそうに。氷渡には戻せない、真昼にも入れてもらえない。……姉さん、今どこの家の人なの?」
セツナは、答えなかった。
背筋を伸ばして、両手を膝に置いて、まっすぐ前を見ていた。
「ま、いいや。どうせもう関係ないもんね」
シグレは、ごく軽い調子で、こう言った。
「――罅の入った器は、器じゃない。ただの不良品だもん」
その瞬間。
僕は、立ち上がっていた。
自分でもわけがわからなかった。座っていたはずなのに、気づいたら立っていて、シグレを見下ろしていた。
部屋が、静まり返った。
「――取り消してください」
声が、震えていた。怖くて震えていたんだと思う。それでも、口は勝手に動いた。
「今の、取り消してください」
「はあ?」
シグレの笑顔が、初めて止まった。
「なに、当主様。うちの家の話だけど」
「氷渡さんの話です」
「同じことだろ」
「違います」
僕は、息を吸った。
「氷渡セツナさんは、器じゃありません」
膝が笑っている。手が汗で滑る。相手は十三家最強の家の、たぶん僕より強い相手だ。ヴィムは氷室にいる。誰も助けてくれない。
それでも、この一言だけは、譲れなかった。
「器っていうのは、中に何か入れるものでしょう。人じゃない。……その人を器って呼ぶ人は、その人の中身を、一度も見たことがない人です」
シグレの顔から、表情が抜けた。
「――は。何それ。ポエム?」
「わかりません。今考えました」
「今考えたのかよ!!」
「はい」
シグレは、心底気味の悪いものを見る目で僕を見て、それから、ザクロを見た。
「父さん、こいつ何なの」
「――座れ、シグレ」
ザクロが、低く言った。
「客人の前だ」
「客人が先に立ったんだけど」
「座れ」
シグレは肩をすくめて、どっかりと座った。
ザクロが、僕を見上げた。
初めて、その目に、感情らしきものが浮かんでいた。何の感情かは、わからなかった。
「真昼家当主。お座りいただきたい」
「……はい。すみません」
僕は座った。膝が、はっきりと震えていた。
隣で、セツナが、僕を見ていた。
完璧な顔が、崩れていた。
目を丸くして、口を半分開けて、耳が真っ赤で、彼女は――たぶん十年ぶりくらいに――氷渡邸の中で、素の顔をしていた。
「……ば、か」
誰にも聞こえないくらいの小さな声で、彼女はそう言った。
「本当に、無作法……」
「すみません」
「――ありがとう」
膝の上で、彼女の指が、袴の布をぎゅっと握っていた。
ザクロが、静かに口を開いた。
「では、本題に入る」




