第36話 氷の館
「姉さんはやめて」
セツナの声は、平坦だった。
「わたしとあなたは従姉弟よ。姉ではないわ」
「えー? 昔はそう呼べって言ったじゃん」
少年は――シグレは、へらへらと笑って、両手を上着のポケットに突っ込んだ。
「六つの頃だっけ。『わたしのほうが四か月お姉さんなんだから、姉さんって呼びなさい』。覚えてる? 俺、けっこう気に入ってんだけど、あの思い出」
「……十年前の話でしょう」
「そうだね。十年前の姉さんは、まだ後継者だったもんね」
空気が、音を立てて冷えた。
比喩じゃない。門の周りの白装束たちが、一斉に半歩下がった。セツナの足元から、うっすらと霜が広がっていた。
「――シグレ様。お客人の前です」
背後で、初老の使者が硬い声を出した。
「客? どこに?」
シグレが、初めて僕を見た。
上から下まで、値札を確かめるみたいに。
「ああ、これが真昼家の当主様? へえ。……ふうん」
彼は僕の前まで歩いてきて、僕の顔を、まじまじと覗き込んだ。
「弱そう」
「よく言われます」
「素直か!」
シグレは吹き出した。
その笑い方は、正直、悪くなかった。屈託がなくて、明るくて、悪意の切れ味だけが妙に鋭い。
「ま、ゆっくりしてってよ、当主様。うち、氷しかないけど」
彼はひらひらと手を振って、屋敷の中へ戻っていった。
僕は、隣を見た。
セツナは、まっすぐ前を見ていた。表情は、完璧だった。
――完璧すぎた。
◇
氷渡邸の廊下は、長かった。
磨かれた黒い床板が、どこまでも続いている。天井は高く、欄間の彫刻はすべて氷の結晶を模していた。廊下を歩くたび、僕の吐く息が白く残って、後ろへ流れていく。
そして、視線があった。
角を曲がるたび、襖の隙間から、渡り廊下の向こうから、庭の松の陰から。誰かが、こちらを見ている。
全員、セツナを見ていた。
その目には、感情らしい感情がなかった。憎しみでも、同情でもない。ただ、確認していた。棚から落ちた品物が、どれくらい欠けたかを確かめるみたいに。
「……氷渡さん」
僕は小声で言った。
「なんでしょう、真昼様」
その声を聞いて、僕は思わず彼女の横顔を見た。
変わっていた。
背筋の伸び方。顎の角度。歩幅。手の指の揃え方。歩き方まで違う。うちの居間で肉じゃがを三杯おかわりした人と、同じ人だとは思えなかった。
この二日、僕はずっと、彼女が「遠いところを見ている」と思っていた。
違ったんだ。
彼女は、遠くを見ていたんじゃない。この顔に戻る準備を、二日かけてしていたのだ。
「……なんでもないです」
「そうですか」
僕たちは、それきり黙って歩いた。
三つ目の角を曲がったところで、ヴィムがいなくなっていることに気づいた。
「あれ。ヴィムさん?」
「先ほど、地下へ向かわれました」
案内の使者が、困った顔で言った。
「氷室はどちらか、と」
「本気で氷室に行った!?」
◇
通されたのは、庭に面した客間だった。
畳は氷みたいに冷たかった。庭には、真夏なのに雪が積もっていた。造り物ではない。氷渡の術が、四百年ぶん、この庭に季節を一つだけ固定している。
その雪の庭に、大きな松があった。
枝という枝が、氷で真っ白に覆われている。まるで、透明なガラスの中に閉じ込められた木みたいだった。
「……綺麗ですね」
「氷渡の御神木よ」
セツナが、僕の隣に座った。
座布団の位置は、ぴったり一畳分、離れていた。
「四百年前、初代がこの土地に根を張った時に植えたもの。あの木が枯れない限り、氷渡家は続くと言われてる」
「氷漬けなのに、枯れないんですか」
「凍らせているんじゃないの。守っているのよ」
彼女は、静かに言った。
「氷渡の術は、本来そういう術。……壊すためじゃなくて、留めておくための術なの。時間を止めて、腐らせない。冷やして、そのままにする」
「――そのままに」
僕は、庭を見た。
白い、動かない庭。四百年、同じ温度。同じ形。何一つ、変わらないように守られてきた場所。
この家の人たちは、たぶん、変わることが下手なんだ。
だから、一度罅が入った器を、直すという発想がない。
「氷渡さん」
「なんでしょう」
「――ここ、寒いですね」
セツナが、こちらを見た。
完璧な顔が、ほんの一ミリ、崩れかけた。
その時、廊下の向こうから、複数の足音が近づいてきた。
揃った、規則正しい足音。石を並べるみたいな。
「――当主代行、氷渡ザクロ様、御成り」




