第35話 プリン三十個の同行
「一応、確認するんだが」
出発の朝、ヴィムが玄関で言った。
「坊ちゃん。お前、これがどういう場所に行く話か、わかってんのか」
「氷渡さんの家です」
「十三家最強の氷結の家だ。しかも今、内輪揉めの真っ最中。そこに、当主戦で勝った側の当主が、勝った相手を連れて乗り込む」
ヴィムはフードの下から、だるそうに僕を見た。
「向こうからしたら、戦利品の見せびらかしに来た若造だぞ」
「……あ」
考えていなかった。
「そういう意味になっちゃいますか」
「なるな」
「どうしましょう」
「知るか。行くって言ったのはお前だ」
ひどい。
でも、ヴィムは玄関の三和土に降りて、靴のかかとを踏みながら、続けた。
「まあ、俺の教育方針としては悪くねえ」
「え?」
「無作法ってのは、時々、作法より強い」
それだけ言って、彼は外に出ていった。
◇
北へ向かう電車の中で、僕は指導料の交渉をされた。
「プリン三十個」
「高い!」
「往復の護衛費と、屋敷内での身辺警護、それに万一の場合の脱出経路の確保だ。三十で足りると思ってんのか」
「じゃあいくらなら」
「三十だ」
「三十でいいんですね!?」
通路を挟んだ向かいの席で、セツナが窓の外を見たまま、小さく吹き出した。
この二日、彼女はずっとこうだった。話しかければ普通に答える。学校にも行く。ご飯も食べる。ただ、時々、僕の知らない遠いところを見ている。
電車が北へ進むにつれて、窓の景色から色が抜けていった。田んぼが減って、杉林が増えて、山の輪郭が近くなる。
「――もうすぐよ」
セツナが言った。
「言っておくけど、屋敷に入ったら、わたしはあなたに敬語を使うわ」
「え、なんでですか」
「他家の当主だからよ。分家の目がある場所で、わたしがあなたを『真昼くん』なんて呼んだら、あなたの格が下がるの」
「別に僕、格とかないですけど」
「あるの!」
彼女は、ぴしゃりと言った。
「あなたにはもう、あるの。……氷渡セツナを落とした、真昼家の当主として」
僕は、返事に困った。
その「格」というやつは、僕には一グラムの実感もない。でも彼女がそれを守ろうとしているのは、たぶん、彼女なりの礼儀なんだと思った。
「……わかりました。じゃあ、僕も一つ条件を」
「なによ」
「屋敷を出たら、すぐ戻してください。敬語」
セツナは、少しだけ黙って、それから窓の外に顔を向けた。
「……善処するわ」
◇
駅からタクシーで二十分。山道を上がった先に、それはあった。
僕は、車を降りて、口を開けたまま立ち尽くした。
白い塀が、視界の端から端まで続いている。門は、僕の背丈の四倍はある。屋根瓦が、朝の光を吸って、青く光っていた。
そして。
「……寒い」
息が、白かった。
八月の朝だ。山とはいえ、下界は蝉が鳴いていた。この門の前だけ、季節が三つずれている。
「氷渡邸の敷地は、常時、氷渡の術が回してあるの」
セツナが、当然のことのように言った。
「結界と冷却を兼ねてる。この気温を保てなくなったら、それは家が弱ったってこと。だから、絶対に緩めない」
「……何百年も?」
「四百年ね」
僕は、門を見上げた。
四百年、誰かが、この寒さを維持し続けてきた。
「氷渡さん」
「なに」
「氷渡さんは、この家で育ったんですね」
「ええ」
「――寒くなかったですか」
セツナが、こちらを見た。
風が、彼女の髪を揺らした。彼女は何か言いかけて、それを飲み込んで、代わりに前を向いた。
「行くわよ。……真昼様」
門が、内側から開いた。
白装束の使者たちが、ずらりと並んで、頭を下げていた。全員の息が白い。
その、いちばん奥に。
一人の少年が、腕を組んで立っていた。
僕と同い年くらいだ。白い髪。氷渡の家紋の入った上着。そして、こちらを見る目つきだけが、ここの誰よりも冷たかった。
少年は、僕たちを――正確には、セツナを見て、にやりと笑った。
「よお。おかえり、姉さん」
セツナの足が、止まった。
「……シグレ」




