第34話 宛名のない後継者
その朝、玄関のチャイムは鳴らなかった。
僕が新聞を取りに出たら、三和土に人が立っていた。それだけだ。鍵は閉まっていた。
「ひっ」
「真昼家当主にご挨拶申し上げる」
白い装束の男だった。年齢がわからない。四十にも六十にも見える。頭を下げているのに、目だけがこちらを見ている。
その息が、白かった。八月の朝に。
「氷渡家より、使いに参りました。氷渡セツナ様へ、当主代行・氷渡ザクロ様よりの書状にございます」
背後で、階段を降りる足音が止まった。
振り返ると、セツナが階段の途中に立っていた。制服のリボンを結びかけの手が、止まっている。
「……氷柱。あなた、直接来るなんて」
「お久しゅうございます、セツナ様」
使者は――氷柱と呼ばれた男は、恭しく、両手で書状を掲げた。
セツナが階段を降りてきて、それを受け取る。
僕は、その表面を見て、なんとなく引っかかった。
達筆で書かれた宛名は、こうだった。
――『氷渡セツナ 殿』。
それだけだった。
「……氷渡さん」
「なに」
「氷渡家の書状って、いつもこういう宛名なんですか」
セツナは、答えなかった。
答えないまま、封を切って、中を読んだ。
彼女の顔から、表情という表情が、順番に落ちていった。作った微笑みも、朝の眠そうな緩みも、全部。最後に残ったのは、僕がまだ一度も見たことのない顔だった。
「氷柱」
「はい」
「……この宛名は、書き損じ?」
「いいえ」
使者は、頭を下げたまま答えた。
「ザクロ様の、ご指示にございます」
書状が、かさりと鳴った。彼女の指が、紙の端を握り潰していた。
◇
居間に、四人が集まった。
僕、セツナ、母さん、それに、いつの間にか窓枠に座っていたヴィム。
「読み上げますね」
セツナは、感情を全部しまい込んだ声で、書状を読んだ。
「――氷渡家は、三日後の日没より『氷雪祭』を執り行う。氷渡家後継の座を、改めて定めるものとする。氷渡セツナは、これに立ち会うべし」
「……立ち会う」
僕は、その言葉を繰り返した。
「出場じゃなくて?」
「ええ」
セツナは、書状を膝の上に置いた。
「立ち会え、って書いてあるわ。……見ていろ、ってこと」
氷雪祭。
名前だけなら、綺麗な祭りに聞こえる。
「そもそも、なんで後継を決め直すんです? 氷渡さんが後継でしょう」
「当主戦に敗れたからよ」
セツナは、淡々と言った。
「十三家の掟。当主戦は家の格をかけた戦い。負けた後継者は、家の格を落とした者。……氷渡家の家訓には、こうあるの。『氷は一度でも罅が入れば、器としない』」
僕は言葉を失った。
「だから、あの宛名なの」
彼女は、自分の名前を指でなぞった。
「『氷渡家後継』が、抜けてるでしょう。……もう、そう呼ばないってこと。書状の一行目で、通告されてるのよ」
母さんが、そっとお茶を置いた。誰も手をつけなかった。
「……氷渡さんは、それでいいんですか」
「よくないわ」
即答だった。
「よくない。でも、掟なの。わたしは負けた。負けたのは事実で、事実は動かせない。だったら――」
「行きましょう」
「え?」
「氷雪祭。三日後ですよね」
僕は立ち上がった。
「僕も行きます」
セツナが、目を見開いた。
「……何を言ってるの。あなた、真昼家の当主なのよ。他家の内輪の儀式に、勝者の家の当主がのこのこ顔を出すなんて、どれだけ無作法か――」
「無作法でいいです」
「よくない! 十三家の他の家がどう見るか」
「氷渡さん」
僕は、彼女の言葉を遮った。
こんなふうに人の話を遮るのは、生まれて初めてだった。
「僕は、真昼家の当主として行くんじゃありません」
「じゃあ、何として」
「友達の家に、遊びに行くだけです」
居間が、静かになった。
セツナが、口を開いて、閉じて、また開いた。何か言い返そうとして、言葉が全部途中で溶けたみたいだった。
窓枠の上で、ヴィムが、ぽつりと言った。
「――俺も行くわ」
「ヴィムさん!?」
「北の氷渡邸っつったら、あそこ、地下に古い氷室があんだよな。氷渡の氷で冷やしたプリンってのを、俺は一度食ってみたい」
「動機!!」




