第33話 完璧の緩みかた
結論から言うと、僕は何も説明できなかった。
なぜなら翌朝、氷渡セツナが僕と一緒に登校してきた時点で、学園の情報網は音速を超えたからだ。
「同棲!?」
「してません!」
「え、じゃあ同居?」
「それは……はい」
「同じ意味じゃん!!」
朝の教室が爆発した。机の島がひとつ、僕の周りに寄ってくる。女子の圧がすごい。
「真昼くん、いつから!?」
「え、ええと、昨日から」
「氷渡さんの荷物は!?」
「段ボール四つでした」
「四つ!? 本気の量じゃん!!」
やめてくれ。僕は情報を出す才能がない。
助けを求めて振り返ると、当の氷渡セツナは自分の席で、涼しい顔で頬杖をついていた。窓の外を眺めて、朝の光を浴びて、絵画みたいに完璧に。
――笑ってる。
目元だけ、かすかに。あれは絶対、面白がっている顔だ。
「氷渡さん!!」
「あら。どうかして、真昼くん」
完璧な微笑みで振り返られた。教室が「うわあ」と沸いた。
「助けてください!」
「わたし、嘘は言えない性分なの」
「何も言ってないですけどね今!?」
◇
昼休み。
僕は購買のパンを抱えて、屋上へ避難した。人間には逃げる自由がある。
階段を上がりきったところで、先客がいた。
鈴木くんだった。
二か月前まで、僕からパンを買う金を巻き上げていた男子だ。当主戦の日、氷の中に閉じ込められて、そのことを覚えていない男子でもある。
「あ」
「あ」
気まずい沈黙が落ちた。
鈴木くんは僕を見て、それから自分の手元のパンを見て、それから、なんとも言えない顔をした。
「……真昼」
「はい」
「その、あれだ。……氷渡さんと、うまくやれよ」
「え?」
「いや、なんか、うん」
彼は自分の言葉に自分で照れたのか、ぐしゃぐしゃと頭をかいて、僕の横をすり抜けて階段を降りていった。
途中で立ち止まって、振り返らずに、こう言った。
「――前は、悪かったな」
足音が遠ざかっていく。
僕は屋上のドアの前で、しばらく立っていた。
二か月前の僕なら、この言葉を聞いても、たぶん「はい」しか言えなかった。今もそれは変わらない。実際、僕は何も言えなかった。
でも、膝は震えなかった。
それだけが、二か月分の変化だった。
◇
放課後。
昇降口で待っていると、セツナがやってきた。
友達――というか、彼女を取り囲む女子のグループと一緒だ。彼女たちに「またね」と手を振って、こちらへ歩いてくる。
その最後の三歩で、彼女の顔が変わる。
完璧な微笑みの角度が、ほんの少しだけ崩れる。眉のあたりが、ゆるむ。氷が、日向に置かれた時みたいに。
「お待たせ」
「今の、どこまでが演技ですか」
「え?」
「あの人たちに手を振ってる時の顔と、今の顔、別ですよね」
セツナは、ぴたりと止まった。
しばらく僕を見上げて、それから、心底うんざりしたようにため息をついた。
「……あなたの二錠目、そういうのまで読めるようになったの?」
「いえ、これは目で見ました」
「もっと悪いわ」
彼女は先に立って歩き出した。夕方の光の中で、彼女の髪が白く光っていた。
「……教室のあれは、ちゃんとした顔よ」
背中越しに、彼女は言った。
「氷渡セツナが十年かけて作った、正しい顔。あれがないと、わたしはあの中で立っていられないの」
「はい」
「だから、失礼なこと言わないで」
「はい」
「……でも」
彼女は、ほんの少しだけ振り返った。
「疲れるのは、事実」
「じゃあ、うちに帰ったら休んでください」
うちに帰ったら、と言ってから、僕は自分の言葉に気づいた。
セツナも、気づいたらしい。
二人して黙って、そのまま十歩くらい歩いた。
その日の夕飯は肉じゃがで、セツナは三杯おかわりして、母さんに「若いっていいわねえ」と笑われていた。
そういう、普通の日だった。
――氷渡家からの使者が来たのは、その二日後のことだ。




