第31話 朝五時の距離
朝五時の河川敷には、三種類の人間がいる。
走っている人。犬を散歩させている人。そして、命の危険にさらされている人だ。
僕は三番目だ。
「真昼くん、右!」
「右、右、右――ひぇっ!?」
耳のすぐ横を、氷の礫が通り過ぎた。頬に切り傷が走る。熱い。
「なんで避けないの!?」
「避けましたよ!? 右に!」
「わたしが『右』って言ったのは、わたしから見て右!」
「それ最初に決めておくやつでは!?」
河川敷に、僕たちの声だけが響いていた。犬を連れたおじさんが遠巻きにこっちを見て、そっと引き返していく。すみません。ただの朝練です。氷が飛んでますけど。
土手の上では、ヴィムがプリンを食べていた。
パーカーのフードをかぶって、あぐらをかいて、スプーンをくわえて、この世で一番どうでもよさそうな顔で僕たちを眺めている。
「ヴィムさん! 何か教えてください!」
「教えてるだろ」
「一言も喋ってないですよね!?」
「見てやってる。教育の八割は見てることだ」
残りの二割は何なんだ。
セツナが息を整えながら、僕の隣に並んだ。額に汗が張りついている。氷の術者でも汗はかくらしい。当たり前だけど、なんだか少し意外だった。
「……もう一本、いける?」
「いけます」
「無理はしなくていいのよ」
「氷渡さんが無理してるのに、僕が休めるわけないでしょう」
セツナは一瞬、目を丸くして、それから前を向いた。耳が、ちょっと赤かった。走ったせいだと思う。たぶん。
「――なら、行くわよ」
二本目も、僕たちは噛み合わなかった。
三本目で、僕はセツナの氷壁に正面から激突した。
四本目の途中で、土手の上から声が飛んだ。
「坊ちゃん。半歩下がれ」
「え?」
「嬢ちゃん。半歩前に出ろ」
言われた通りにした。それだけだった。
五本目。
セツナの氷が、僕の視界を邪魔しなかった。僕の踏み込みが、セツナの術の道筋を潰さなかった。二人の間に、ちょうど一人分の余白があって、そこを冷たい風が通り抜けていった。
――届く。
初めて、そう思った。
「……今の」
「今の、いけました!」
振り返ると、ヴィムはもうプリンの二個目を開けていた。
「距離だよ、距離。お前ら、近すぎんだよ」
そう言って、あくびをした。
◇
七時に切り上げて、僕たちは家に帰った。
僕たち、というのが、この三日ですっかり普通になっている。
「ただいまー」
「おかえりなさい。あらセツナちゃん、また泥だらけ! 先にお風呂入っちゃいなさい」
「お、お邪魔しています。……はい、お言葉に甘えて」
風呂から上がったセツナが、うちの制服姿で食卓に着く。母さんが当たり前みたいに二人分の焼き鮭を出す。セツナが当たり前みたいに「いただきます」と手を合わせる。
当たり前だ。
当たり前すぎて、僕はその朝、初めて引っかかった。
「……氷渡さん」
「なに?」
「氷渡さんの家って、どっちの方向でしたっけ」
箸が、止まった。
ほんの一拍だった。すぐに彼女は焼き鮭に戻って、何でもない声で言った。
「北の方よ。遠いの」
「毎朝、そこから四時に出て河川敷まで?」
「……早起きは得意なの」
嘘だ、と思った。
二錠目が開いてから、僕は人の魔力の流れが少しだけ読めるようになった。セツナの魔力は綺麗な川みたいだ、といつも思う。その川が、今、ほんの少しだけ淀んだ。
何かを、隠している。
でも僕は、聞かなかった。踏み込む勇気がなかったわけじゃない――と思いたい。ただ、彼女がまだ話したくないことを、朝の食卓で暴くのは違う気がしたのだ。
「そうですか。……鮭、ほぐしましょうか」
「子供扱いしないで」
「はい」
その日の夕方だった。
学校から帰ってきた僕は、玄関で立ち止まった。
三和土に、見慣れない段ボールが積まれていた。四つ。しっかりした化粧箱で、側面に氷の結晶みたいな家紋が押してある。
母さんが二階から降りてきて、にこにこと言った。
「あ、おかえり。セツナちゃんの荷物、届いたわよ」
「荷物?」
「今日からうちの子だから、って」
「……は?」




