第3話 母さんは知っていた
その夜、僕は台所に立つ母さんの背中に、思い切って聞いた。
「ねえ。……ヴィムさんのこと、どこまで知ってるの」
味噌汁をかき混ぜる手は、止まらなかった。
「あの人ね、お父さんの古いお友達なの」
「――は?」
「昔ね、うちに何度か来たことがあるのよ。ケイが赤ちゃんの頃だから、覚えてないでしょうけど」
母さんはお玉を置いて、こちらを振り向いた。いつものほんわかした笑顔で。
「プリンばっかり食べてる変な人でしょう。あの頃から変わらないわねえ」
「じゃ、じゃあ母さん、知ってるの? 父さんのこととか、その、真昼家が……ええと」
魔界、という単語は、口に出すと母さんの日常が壊れてしまう気がして、喉で止まった。
母さんは、少しだけ笑い方を変えた。
ほんわかは、そのまま。でも、目の奥だけが、静かになった。
「お母さんはね、普通の人間よ。難しいことは、今も半分もわかってない」
「……うん」
「でもね。お父さんがいなくなる前の日に、言われたの。『いつかヴィムって男が来る。そしたら、ケイを任せてほしい』って」
――十年前。
父さんは、いなくなる前の日に、今日のことを知っていた。
「だからお母さん、十年間ずっと待ってたのよ。玄関にあの人が座ってた時、ああ、やっと来たなあって」
母さんはそう言って、味噌汁の味見をした。
「うん、いいお味」
「…………なんで、そんな普通にしてられるの」
「そりゃあ、あなた」
母さんは、きょとんとした顔で言った。
「十年も心の準備をさせてもらったんだもの」
僕は、何も言えなかった。
僕が「普通の家」だと思って生きてきた十五年間、母さんは一人で、この日を待っていたのだ。
◇
風呂から上がると、リビングの窓が開いていて、ヴィムがベランダの手すりに腰かけていた。夜風の中、プリンの空き容器が三つ、行儀よく並んでいる。
「僕の明日の分まで食べてる……」
「報酬の前借りだ」
「働く前から前借りする人、初めて見ました」
僕は少し迷ってから、窓際に立った。聞くなら、今しかない気がした。
「ヴィムさん。父さんと、友達だったんですか」
「……あー」
ヴィムは夜空を見たまま、スプーンをくわえた。
「友達っつーか。腐れ縁だな。魔界時代からの」
「父さんは、今、どこで何してるんですか」
「さあな」
「さあなって」
「本当に知らねえんだよ。あいつは十年前、俺にお前のことを頼んで、それっきりだ」
ヴィムはスプーンで、夜空の一点を指した。
「ただ――死んじゃいねえよ。それだけは断言してやる」
「……なんで断言できるんですか」
「カナメが死ぬところなんざ想像もつかねえからだ。あれは十三家で一番しぶとい男だった」
カナメ。父さんの名前を、この人は呼び捨てにする。その響きだけで、二人の間に僕の知らない長い時間があったことがわかった。
「なあ坊ちゃん。一個だけ、先に謝っとくわ」
「え?」
「俺の教育は優しくねえ。泣いても続けるし、吐いても続ける。お前は多分、明日から毎日、俺を恨む」
ヴィムは手すりからひょいと降りて、僕の前に立った。夜の逆光で、表情はよく見えなかった。
「それでも十年前の約束は果たす。――お前を、殺させない。それが俺の仕事だ」
声だけが、真剣だった。
だから僕は、頷くしかなかった。頷いてから、大事なことを聞き忘れていたのに気づいた。
「あの、ちなみに教育って、明日の何時から」
「五時」
「夕方の?」
「朝に決まってんだろ」
「あさの!?」
「おやすみ、坊ちゃん。よく寝とけよ――寝られるうちにな」
ヴィムはにやりと笑って、夜の闇に、音もなく溶けた。
最後の一言が冗談じゃなかったことを、僕は翌朝、嫌というほど知ることになる。




