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いじめられっ子の俺に、魔界No.1暗殺者が家庭教師としてやってきた ~報酬はプリン。ただし俺は、先生の正体をまだ知らない~  作者: 燈野いさり
第1章 家庭教師、来る

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第26話 一歩

 氷の欠片が、降り続いていた。


 差し出した僕の手を、セツナは、長いこと見ていた。


 取らなかった。代わりに、彼女は自分の力で立ち上がって、装束の乱れを直して、背筋を伸ばした。最後まで、氷渡の姫の立ち方だった。


 それから、静かに頭を下げた。


「――氷渡家後継、氷渡セツナは」


 声は、もう震えていなかった。


「当主戦の敗北を、認めます」


 闘技場に降る氷の雨だけが、しばらく、音を立てていた。


「……ふざ、けるな」


 低い声がした。


 桟敷から、ザクロが降りてきた。氷の階段を踏み砕くような足取りで、闘技場に、入ってきた。


「ふざけるなふざけるなふざけるな……!! 認めん、認めんぞ!! 貴様はまだ立てる! 魔力も残っている! 氷渡の百年の悲願を、こんな、こんな茶番で……!!」


「ザクロ様。決着は――」


「黙れッ!!」


 ザクロの周囲の空気が、ばきばきと凍り始めた。石の目が、完全に据わっていた。


「玉座が砕けた? なら刻印は成っていない! 決着は無効だ! セツナ、続けろ! 続けんのなら、わしが直々にその小僧を――」


 男の右手に、氷の刃が生まれた。


 介添人が、後継者に、手を出す。当主戦の作法の、一番太い柱をへし折る一線。それを、この男は今、越えようとして――


「(まずい……!)」


 僕がセツナの前に出ようとした、その時だった。


 ヴィムが、一歩、前に出た。


 それだけだった。


 ずっと介添人の位置で腕を組んでいたパーカーの男が、腕を解いて、たった一歩、足を踏み出した。それだけ。


 なのに――世界が、凍った。


 絶対凍土なんて、比べものにならなかった。温度の話じゃない。空気が、光が、時間の流れそのものが、その一歩の重みで軋んで、静止した。氷の欠片が降るのをやめたようにさえ、見えた。


 ザクロが、止まった。


 振り上げた氷の刃が、途中で、止まった。石の目が、限界まで見開かれて、ヴィムを見ていた。額に、玉の汗が浮いていく。氷の術者の額に、汗が。


「な……、……ぁ……」


 ヴィムは、何もしていない。


 術も、構えも、威嚇の言葉も、何も。ただそこに立って、フードの下から、だるそうな目でザクロを見ているだけだ。


 でも僕には、二錠目の感知が、伝えてしまった。


 何も感じないのだ。あの人から、魔力の流れがひとつも読めない。セツナの魔力が綺麗な川なら、ザクロのは硬い岩盤で――ヴィムのは、底の見えない、真っ暗な静かな海だった。深さがわからない。縁に立っただけで、それだけで足がすくむ、圧倒的な「わからなさ」。


 ザクロの氷の刃が、ぱき、と根本から崩れて、落ちた。


「……介添人どの、よぉ」


 ヴィムが、口を開いた。声は、いつも通りだるかった。だるいまま、刃物だった。


「うちの坊ちゃんとそちらの嬢ちゃんが、いま、当主戦の決着をつけた。……あんたの目は節穴か? それとも」


 もう半歩。


「――続きは、俺と話すか?」


 ザクロの膝が、がくん、と落ちた。


 凍った氷原に、氷渡家分家筆頭が、尻餅をついた。立てないのだ。目の前の男が何者なのか、たぶんこの人は僕よりずっと正確に、その「格」だけを理解してしまったから。


「ひ……っ、……いや……決着は……み、認め……」


「聞こえねえな」


「――認めるッ!! 当主戦の決着を、氷渡家は認める!!」


 裏返った絶叫が、闘技場に響いた。


 ヴィムは「ん」とだけ言って、踵を返した。世界の静止が、ふっと解けて、氷の欠片がまた降り始める。


 すれ違いざま、僕は小さな声で聞いてしまった。


「……ヴィムさん。今の、何をしたんですか」


「あ? 何も。一歩歩いただけだが」


「…………」


 この人は――やっぱり、只者じゃない。


 それが何者なのかを聞く勇気は、まだ、僕にはなかった。


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