第21話 絶対凍土
掴んでいた手首が、僕の手の中から消えた。
消えた、としか言えない速さで彼女は後ろへ跳び、着地と同時に、両手を氷原に突いた。装束の袖が広がって、白い花が咲いたように見えた。
「――氷渡家秘伝」
声が、領域中に響いた。
「『絶対凍土』」
世界が、白く、死んだ。
最初に音が消えた。氷嵐の唸りも、氷柱のきしみも、僕自身の足音も、全部。次に、色が消えた。夕焼けのオレンジが漂白されて、視界の全部が、青白い一色に沈む。
そして、寒さが来た。
いや――「寒い」なんて言葉じゃ、ぜんぜん足りない。
空気そのものが、凍った。吸った息が喉の奥で氷の粒になる。まばたきのたび、まつげ同士が凍りつく。一錠目の熱が、体の芯で必死に燃えているのに、その熱が皮膚に届く前に、外から殺されていく。焚き火の周りの空気ごと、丸ごと冬に沈められたみたいに。
「……これ、は……」
「氷渡家の当主継承術。領域内の温度の主導権を、完全に掌握する術よ」
セツナは、氷原に手を突いたまま、静かに言った。彼女の周りだけ、雪が円を描いて舞っている。まるで、術のほうが彼女を守るように。
「この中では、炎は燃えない。魔力は巡らない。生き物は、動けない。……あなたの身体強化も、ね。歴代の氷渡当主が、これで戦を終わらせてきた。文字通り――すべてを、終わらせる術」
その通りだった。
足が、上がらない。凍ったんじゃない。動かすための熱が、追いつかない。一歩踏み出そうとして、僕は膝から氷原に崩れた。
「がっ……!」
受け身も取れなかった。頬が氷に触れて、貼りつく。引き剥がすだけで、皮膚が悲鳴を上げた。
立て。
立とうとした。腕が震えるだけだった。指先が、白くなっていく。爪の色が、変わっていく。ああ、これが彼女の見てきた色か、と場違いに思った。凍傷って、こういう色から始まるのか。
「立たないで」
彼女の声が、降ってくる。
「お願いだから、もう、立たないで。この術の中で動けば動くほど、体温を持っていかれる。次に立ったら、指を失うかもしれない。その次は、腕。……あなたはよく戦ったわ。一錠でここまで来た人を、わたしは他に知らない。ザクロ様だって、内心では驚いている。だから」
「……氷渡、さん」
「棄権しなさい。人間の彼は、わたしが責任を持って解かせる。ザクロ様が何と言おうと、それだけは、わたしが。……あなたはまだ、これからの人でしょう。ここで壊れていい人じゃ、ないでしょう」
優しい声だった。
たぶん、本気の優しさだった。この人は、勝ちを目前にして、僕に逃げ道を作ろうとしている。作法すれすれの逃げ道を。自分が後で何を言われるかも、わかった上で。
――優しさは、隙って呼ばれるのよ。
いつか屋上でそう言った人が、いま僕の前で、その「隙」を晒している。晒しながら、それを自分で「隙」だとも思っていない。
だから、わかった。
この絶対凍土は、彼女の術じゃない。彼女の術は、こんなに悲しい色をしていない。これは氷渡家が、五歳の女の子に何千回も練習させて、体に彫り込んだ術だ。凍傷の痕の数だけ、彼女から時間を奪って完成した術だ。歴代の当主の勝利の数だけ、誰かをこうやって凍らせてきた術だ。
こんなものに、負けたくない。
彼女に、じゃない。彼女にこれを彫り込んだ「何か」に、負けたくない。
僕は、氷原に両手を突いた。
肘が震える。息が凍る。視界の端が白く狭まっていく。心臓の音が、遠くで鳴る太鼓みたいに、間遠になっていく。
それでも。
「……言った、じゃないですか」
右膝を、立てた。
「僕はもう……弱いままでいるのを、やめたんです」
左足を、立てた。
立った。
絶対凍土の真ん中で、僕は、二本の足で立った。金色の光が、氷点下の世界で、蝋燭の火みたいに細く、でも消えずに、揺れていた。
「どうして……」
セツナの声が、初めて、割れた。
「どうして立つの!? あなたに勝ち目なんてないのに! 才能も、年季も、術も、何もかもわたしのほうが上なのに! 立てば立つだけ、壊れていくだけなのに……! なんで、あなたは……!」
「……その質問」
僕は、凍った唇を、無理やり動かした。
「そっくりそのまま、返します」
一歩、前に出る。足の感覚はない。でも、前に出たことは、わかる。
さっき言いそびれた「聞きたいこと」を、今度こそ言うために。
「氷渡さん。……ひとつだけ、聞かせてください」
もう一歩。
「君は今――誰のために、戦ってるの」
絶対凍土が、ぴしり、と鳴った。




