第19話 一錠目、完全解放
風のない世界の真ん中で、僕は息を吸った。
十五年間の自分のことを、思った。
断れない僕。流される僕。誰かの「ついで」の僕。焼きそばパンを譲って、自分の昼飯を諦める僕。「別に、いいけど」と思い込むのが得意技の僕。
それから、この十日間のことを思った。
玄関でプリンを食べていた男。地雷原の通学路。避けられる拳を、避けなかった夕方。凍傷の痕を隠す指先。ブランコの軋む音。ここが「こうしたい」って言うほうに行きなさい、と胸を突いた指。ノートに書いた、たった一行。
――僕は、「見てるだけ」をやめたい。
あの一行は、まだ半分だった。見てるだけをやめて、どうするのか。その続きが、ずっと言葉にならなかった。
今なら、言える。
目の前に、道具にされてる女の子がいて。氷の中に、眠ったままの同級生がいて。頭の上から、人を在庫みたいに数える声が降ってきて。
その全部を前にして、僕の中の一番深いところが、はっきりと言った。
「僕は」
声は、震えなかった。
「僕は、弱いままでいるのを、やめる」
誰かへの宣言じゃなかった。セツナでも、ザクロでも、ヴィムでもなく――十五年間、目を伏せて生きてきた僕自身への、絶縁状だった。
瞬間。
右手の甲が、燃えた。
「……っ、あ……!」
熱い。でも、嫌な熱さじゃない。真冬の朝、かじかんだ指を風呂の湯に浸けた時の、あの痛いくらいの生き返り方に似ていた。
金色の光が、手の甲から溢れた。十三重の鎖。十三の錠前。その一番外側の錠が、鍵穴から光の筋を噴き出して――
かちん。
澄んだ音を立てて、開いた。
世界が、変わった。
いや、変わったのは僕のほうだ。
まず、寒くなくなった。体の芯に小さな太陽を飲んだみたいに、内側から熱が巡る。凍って感覚のなかった足の指先まで、どくん、どくん、と脈が通う。魔力ってのは肚から湧く――ヴィムの言葉の意味が、初めて、体でわかった。これは肚から湧いて、全身を回る、僕自身の熱だ。
視界が晴れた。氷嵐の白は同じなのに、輪郭がぜんぶ、くっきり見える。
そして、体が――軽い。十五年間着てきた、鉛の服を脱いだみたいに。
「刻印の、解放……」
セツナの声に、初めて、張り詰めたものが混ざった。
「一錠目。魔力による、身体強化……この土壇場で……!? 嘘でしょう、目覚めて十日の人が……」
「悪あがきよ」
ザクロが吐き捨てた。
「たかが一錠。氷渡の術層とは年季が違う。十年と十日だ、勝負にもならん。潰せ」
氷の槍が、来た。
風は読めない。でも、今は――見えた。槍が生まれる瞬間の、空気の凍る筋が。来る、じゃない。もう来ている軌道が、線になって見える。強化されたのは筋力だけじゃない。目も、耳も、肌も、全部が一段、上の階に引っ越していた。
体が、動いた。
考えるのと同じ速さで、僕は槍の横を駆け抜けていた。氷原を蹴った足が、信じられない距離を進む。転ばない。滑らない。魔力が足の裏に吸い付いて、氷を掴んでいる。
「(これが……一錠……!)」
二本目。屈んで潜る。三本目。跳ぶ。跳べた。自分の背丈より高く。着地して、なお前へ。四本目と五本目の間を、体を横にして抜ける。嵐の密度は変わっていないのに、通れる隙間が、初めて「ある」ように見えた。
距離が、詰まる。
生まれて初めて、僕は「逃げる」ためじゃなく「向かう」ために走っていた。それだけのことが、こんなに違う。同じ足で、同じ氷の上を走っているのに、世界の側が違って見える。
「――っ」
セツナが後ろへ跳びながら、両手で印を結んだ。目の前に氷の壁がそそり立つ。分厚い。高い。夕焼けを飲み込んで、青黒く聳える壁。さっきまでの僕なら、見上げて絶望して終わりだ。
僕は速度を緩めなかった。
右の拳を、握った。魔力を、ヴィムに叩き込まれた通りに、拳のひとつ先――当てる瞬間の一点に、集める。散らすな。溜めるな。通せ。
「ぁあああああっ!」
拳が、壁に触れた。
氷の壁は、砕けなかった。でも、蜘蛛の巣みたいな罅が、拳を中心に、ばきばきばきっ、と一気に走った。壁の芯まで、確かに、通った手応えがあった。
壁の向こうで、罅越しに、セツナと目が合った。
彼女の完璧な無表情に、はっきりと、驚愕が浮かんでいた。
「氷渡の防壁に……素手で、罅……?」
「……っは……、……次は」
僕は、じんじん痺れる拳を握り直した。金色の光が、指の間からこぼれている。痛い。でも、この痛みは、殴られる痛みじゃない。前に進んだ分の痛みだ。
「次は、割ります」




