第18話 静かな怒り
「鈴木くんの氷が――上がってる!?」
嵐の中で、僕は叫んでいた。
間違いない。決闘が始まった時、氷は彼の腰までだった。それが今は胸元。ぐったり眠る顔のすぐ下まで、青い氷が這い上がっている。呼吸のたびに、氷の表面がわずかに曇る。まだ息はある。でも、確実に、氷は進んでいる。
セツナの動きが、止まった。
彼女は振り返って、氷柱を見た。その横顔から、すっと血の気が引くのがわかった。
「……ザクロ様。あの封氷、術式を変えましたね」
「ん?」
桟敷の男は、退屈そうに頬杖をついていた。
「ああ。『賭け金』の鮮度管理だ。決闘が長引くほど封が進む仕様に変えた。人間の小僧が氷に全部飲まれる前に決着がつけば、何の問題もない。……時計代わりにちょうどいいだろう。砂時計より、よほど士気が上がる」
「そんな作法は――」
「『賭け金の管理は介添人に一任される』。当主戦法度、第七条第三項」
ザクロは、諳んじた。よどみなく、正確に。何百回も読み込んだ人間の、諳んじ方だった。
「読み込みが甘いぞ、セツナ。作法の内側だ、ぎりぎりな。……それとも何だ。おまえは敵方の人間ひとりのために、この期に及んで決闘を中断し、氷渡の名に泥を塗るか? 百年に一人の才が、人間ひとりに絆されたと、本家に報告されたいか?」
「…………」
「時間を食うほど小僧の氷は進む。つまりおまえが五分で終わらせれば済む話よ。慈悲だぞ、これは。さあ――続けろ」
セツナの拳が、袖の中で握られたのが、遠目にもわかった。
彼女は何も言い返さなかった。言い返せなかった。ただこちらへ向き直った顔は、完璧な決闘者の顔に戻っていて、その完璧さが、逆に痛々しかった。
「……聞いての通りよ、真昼くん」
「…………」
「あなたが粘るほど、彼の氷は進む。あなたが棄権すれば、彼は朝まで氷の中。どちらにしても、早く終わらせるしかないの。恨むなら、わたしを恨んで。これが氷渡の――」
「氷渡さん」
自分の声が、変に静かで、自分で驚いた。
「謝るなら、僕じゃなくて、鈴木くんにしてください。あとで。全部終わって、彼が起きたら」
「……え?」
僕は、氷柱の中の鈴木くんを見た。
いじめっ子だ。僕の焼きそばパンを何度も奪って、ノートを写して、カバンを運ばせた張本人だ。正直、好きかと聞かれたら、答えに困る。昨日までの僕なら、「助けたい」なんて言葉は、綺麗事の棚から借りてくるしかなかったと思う。
でも、あいつは今、眠ったまま、氷に飲まれかけている。
当主戦も、十三家も、刻印も、何ひとつ知らないまま。部室に隠したゲーム機を取りに来ただけで。「賭け金」なんて呼ばれて。鮮度、なんて言われて。時計代わり、なんて言われて。
あの言い方だ。
あの言い方が、駄目だ。
――僕の中で、何かが、音もなく据わった。
沸騰じゃない。爆発でもない。もっと静かで、もっと重たいものだった。湖の底に、大きな石がひとつ、沈んで動かなくなるみたいに。怒りって熱いものだと思ってた。違った。本物は、冷たくて、重くて、静かだった。
「ザクロ、さん」
僕は、桟敷を見上げた。
「あなたにとって、あの人は『小僧』で、『賭け金』で、『鮮度』なんですね」
「事実だろう」
「氷渡さんのことも、『五分で勝つ道具』なんですね」
「……ほう?」
石の目が、初めて、僕をまともに見た。値札を貼る目のまま、でも、少しだけ角度を変えて。
「道具に決まっている。後継者とはそういうものだ。家という刃の、切っ先よ。研いで、振るって、欠ければ換える。――おまえも同じだぞ、真昼の。刻印を運ぶだけの、器だ。中身は要らん」
「そうですか」
僕は、頷いた。
怖くなかった。不思議なくらい。たぶん、怖さの席に、もう別のものが座ってしまったからだ。
十五年間、僕は「便利なやつ」だった。空気とか、備品とか、そういう扱いに、頷いてきた。だからわかる。この男の言葉は、教室のあの言葉と、同じ棚に並んでいる。人を「使えるかどうか」でしか数えない言葉。セツナの十年を「才能」としか呼ばない言葉。鈴木くんの命を「鮮度」と呼ぶ言葉。
僕は、その棚ごと、もう頷かないと決めた。
視界の隅で、ヴィムが動いた。介添人の位置に立ったまま、腕を組んで、目を閉じている。何も言わない。何もしない。――お前が全部やれ。その姿勢のまま、そう言っていた。
「氷渡さん。続きを、お願いします」
「……いいの? 次で終わらせるわよ」
「はい。早く終わらせないと、鈴木くんが凍るので。……ただ」
僕は、両足で氷を踏みしめた。氷点下の氷原が、靴の裏で、ぎしりと鳴いた。
「次からは、僕も、逃げるのをやめるので」
右手の甲の奥で、かちり、と。
鍵穴に刺さったままだった鍵が、微かに、回り始める音がした。




