第16話 開戦
世界中の風が、止まった。
――来る。
考えるより先に、体が右へ跳んでいた。
直後、僕が立っていた氷原が、下から突き上げるように弾けた。氷の槍だ。人の背丈より高い、透き通った槍の穂先が、さっきまで僕の足があった場所を貫いて、夕焼けを反射している。
「……っ、は……」
着地に失敗して、氷の上を転がる。肘が痛い。掌が擦れて熱い。でも、生きてる。
開始の合図から、まだ三秒。挨拶も、駆け引きも、様子見もなし。当主戦というのは、そういうものらしかった。
「へえ」
闘技場の中央、玉座の前で、セツナが小さく目を見張った。
「初撃を避けた人、久しぶりに見たわ」
「ど、どうも……!」
「褒めてないの。あれを避けられると、二撃目からの組み立てが変わるから――手間が増えた、という意味よ」
彼女の指先が、す、と動いた。
風が、止まる。
今度は左。跳ぶ。氷の槍。風が止まる。前。転がる。槍。槍。槍。
波みたいだった。一本避けるたびに次が来る。二本目を避けた場所に、三本目が待っている。氷渡セツナの術は、単発じゃない。詰将棋だ。僕の逃げ場を一手ずつ削って、盤の隅へ、丁寧に追い込んでいく。
「(見ろ……よく見ろ……!)」
ヴィムの三日間が、頭の中で回っていた。
――冷気は肌で読め。産毛が先に知る。
――氷渡の術は、発動の一瞬前、必ず風が止まる。
右のこめかみが、ちりっと冷えた。来るのは右上。しゃがむ。頭上を白い冷気が薙いでいく。前髪の先が、ぱき、と音を立てて凍った。
――今のを立って受けてたら、首から上が。
想像しかけて、やめた。考えるな。恐怖に思考を渡すな。渡した瞬間、観察が死ぬ。ヴィムに百回言われたことだ。恐怖は消えない。消えないから、隅に座らせておけ。真ん中の席は、目に譲れ。
次。風。止まった。どこだ。頬も、首も、腕も、どこも冷えてない。じゃあどこ――足元!?
「うわっ……!」
真下から膨れ上がった氷を、僕は半分踏み台にするみたいにして、無様に前へ逃げた。顎を打った。口の中に、じわりと鉄の味が広がる。
転がりながら、介添人の位置に立つヴィムが見えた。腕を組んで、微動だにしない。目だけが、僕を追っている。助けは来ない。来ないことが、約束だ。
――お前が全部やれ。
「(……やって、やる)」
立ち上がる。膝は笑っている。それでも立てるうちは、まだ負けじゃない。
拍手が、聞こえた。
乾いた、二回だけの拍手。観客席――闘技場の外周に設えられた氷の桟敷から、ザクロが石の目のまま、こちらを見下ろしていた。
「一分十秒。よく保ったほうだ、人間育ちにしては」
嘲るでもなく、感心するでもなく。ただ、値札を貼るみたいな言い方だった。
「だが芸がひとつだ。読んで、避ける。それだけ。犬でもできるぞ、真昼の後継よ」
「…………」
「セツナ。遊びは作法に反する」
「――遊んでいません」
セツナの声が、一段、冷えた。
「測っていたの。彼の目が、どこまで視えるのかを。……もう済んだわ」
彼女が、初めてその場から一歩、前に出た。
白と氷青の装束の袖が、ふわりと揺れる。揺れて――止まった。
袖だけじゃない。旗みたいに立ち並ぶ氷柱の表面を撫でていた風も、僕の頬をかすめていた風も、氷原の上を這っていた雪煙も、全部。
世界が、丸ごと、息を止めた。
「(……嘘だろ)」
うなじの警報が、これまで聞いたことのない音で鳴った。今までのが「止まる」なら、これは「消えた」だ。半径数メートルどころじゃない。この領域全部の空気が、彼女の指先一本に握られている。
河川敷のロックアイスが可愛く思えた。ヴィムの模擬冷気ですら、これに比べたら春の風だ。これが、物心つく前から仕込まれた本物の名門の、十年分の練習量。
「真昼ケイくん」
セツナは、す、と右手を上げた。
「あなたの読みは正しいわ。わたしの術の前には、風が止まる。誰に教わったのかは知らないけれど、正解よ。――でもね」
上げた手の周りに、氷の礫が生まれていく。十、二十、三十。数えるのをやめた。ひとつひとつが拳ほどもあって、夕焼けを浴びて、それは残酷なくらい綺麗だった。
「全部止めてしまえば、読めないでしょう?」
「…………」
「風のない世界へ、ようこそ。……これが、氷渡の本気よ」
礫の群れが、一斉にこちらを向いた。
逃げ場を探した。ない。読もうとした。読めない。風はもう、どこにも吹いていない。肌が拾える情報が、ゼロになった。
僕にできたのは、たったひとつ。
奥歯を噛んで、その場から――逃げずに、半歩だけ前に出ることだった。
理由なんてなかった。ただ、下がったら二度と前に出られない気がした。それだけだった。
「――来いっ……!」
氷の驟雨が、降った。




