第15話 氷の城
それは、氷でできた城だった。
校舎の輪郭は残っている。三階建ての教室棟、渡り廊下、体育館。でも全部が、分厚い青氷に包まれて、夕焼けを浴びてオレンジと群青に燃えていた。グラウンドは一面の氷原になり、真ん中に、氷の柱が円形に立ち並んでいる。古代の闘技場みたいに。
「……学校が」
「結界内だ。現実の学校は無事だから安心しろ」
ヴィムが氷原に足を踏み入れながら言った。
「当主戦の決闘場ってのは、現実と少しずれた場所に作られる。ここは言わば『学校の写し』だ。どれだけ暴れても、本物には傷ひとつつかねえ。人間にも見えねえ。――そういう作法だ」
「じゃあ、誰かが巻き込まれることも」
「ねえよ。結界は人払いも兼ねてる。中に入れるのは後継者と介添人だけ――」
ヴィムの声が、止まった。
立ち止まった彼の視線の先。闘技場の氷柱の一本に、それはあった。
氷柱の中に、人が、閉じ込められていた。
見覚えのある髪型。見覚えのある、うちの学校の夏服。腰から下を氷に飲まれて、上半身だけ出した格好で、ぐったりと目を閉じている。
「――鈴木、くん!?」
僕は駆け出していた。氷原で二回転びながら、柱に取りついた。息はある。触れた氷は、恐ろしく冷たい。
「なんで、なんで鈴木くんが……! 人払いって言ったじゃないですか!」
「……招かれざる客、ね」
声は、闘技場の中央から降ってきた。
氷柱の最も高い場所に設えられた、氷の玉座。その前に、氷渡セツナが立っていた。制服ではなく、白と氷青の、戦装束のような着物姿で。
「結界を張る直前、彼、忘れ物を取りに校舎に忍び込んでいたの。部室に、大事なゲーム機を隠していたらしいわ」
「じゃ、じゃあ出してあげてください! 関係ない人でしょう!?」
「ええ、関係ない。だから眠らせて、保存してある。凍傷にはしていないわ。決闘が終われば、記憶を消して返す――のが、作法」
セツナは、そこで言葉を切った。
「……のはずだった、のだけれど」
彼女の声が、初めて、硬かった。
「わたしの介添人が、それを許さなかったの」
「――ほう?」
ヴィムの目が、すっと細くなった。
玉座の陰から、ゆらりと人影が現れた。
氷渡セツナと同じ色の装束を着た、背の高い男だった。年は四十くらいだろうか。セツナと似た、整って冷たい顔立ち。でも彼女と決定的に違うのは――目だ。あの人の目は、氷ですらない。ただの、硬い石だ。
「氷渡家分家筆頭、氷渡ザクロ。介添人を務める」
男は名乗って、氷柱の中の鈴木くんを一瞥した。
「人間の小僧は『賭け金』にさせてもらった。真昼の後継者が逃げた場合、あるいは決闘の途中で棄権した場合――氷の中で、朝まで保存する。人間の体が氷の中の朝まで保つかは、知らんがな」
「なっ……!?」
「ザクロ様! その扱いは作法にありません。当主戦は後継者同士の――」
「セツナ」
男は、彼女の言葉を、名前ひとつで斬り捨てた。
「お前の仕事は勝つことだ。作法の解釈は介添人の仕事。……それとも、本家の姫は、分家の年寄りに口答えする躾を受けたか?」
セツナの唇が、白くなるまで結ばれた。
彼女は、俯いた。「……いえ」と、小さく言った。
――ああ。
これか。これが、あの人の言ってた「家」か。
勝っても道具、負けたら不良品。凍傷の指を隠して、笑顔を鏡で練習して、そうやって完璧に磨き上げた「氷渡セツナ」の上に、あんな目をした大人が、当たり前みたいに乗っかっている。
氷の中の鈴木くん。俯いたセツナ。石の目の男。
僕の中で、何かが、静かに煮え始めた。
「――坊ちゃん」
ヴィムが僕の隣に立った。声は、いつも通りだるそうで、でも、その奥に刃物みたいなものが一本、通っていた。
「予定変更だ。ありゃ俺の獲物……と言いたいところだが、介添人は手が出せねえ。当主戦の間、俺にできるのは見てることだけだ」
「……はい」
「だからよ。悪いが、お前が全部やれ」
ヴィムは僕の背中を、どん、と叩いた。
「友達を取り返せ。ついでに――あの嬢ちゃんの『家』とやらの鼻っ柱、へし折ってこい」
「友達じゃなくて、いじめっ子ですけどね……!」
軽口を叩いた自分に、自分で驚いた。膝は、もう震えていなかった。
僕は闘技場の中央へ歩き出した。氷の玉座の前で、セツナが顔を上げる。俯いていた分家の姫の顔が、決闘者の顔に変わっていく。
夕日が、地平線に触れた。
「――日没」
ザクロが、石の目のまま宣した。
「当主戦、開始」
世界中の風が、止まった。




