第14話 三日目・寝る
特訓最終日のメニューは、宣言通り「寝る」だった。
「起きたか。よし、二度寝しろ」
「本当に寝るだけなんですか!? 最終奥義とか、秘伝の技とかは!?」
「三日で覚えた付け焼き刃なんぞ、本番じゃ剥がれるだけだ。今日のお前の仕事は、食う、寝る、あと――肚を決める。以上」
ヴィムはそう言って、僕の部屋の床で漫画を読み始めた。仕事をしろ。いや、これが仕事なのか。
昼、母さんが作ったオムライスを食べた。うまかった。
午後、少し寝た。夢は見なかった。
夕方前に目が覚めて、僕は机に向かった。ノートを開く。観察の宿題を書き続けたノートだ。ぱらぱらとめくり返す。
『氷渡さんの指は、努力の痕を隠している』
『笑う時、目が先に笑って、口が後から笑う』
『鈴木くんは、僕が言い返した時、怒る前に一瞬、驚いていた』
『ヴィムさんは、プリンを食べる時だけ、目がだるくない』
……我ながら、変なノートだ。
でも、このノートを書きながら、僕はずっと考えていたんだと思う。人のことばかり見て生きてきた十五年間の、その先のことを。
僕はペンを取って、ノートの新しいページに、ゆっくり書いた。
昨日の夜、公園で見えた answer の輪郭を、言葉にする。
『僕は、「見てるだけ」をやめたい』
人の顔色を見て、空気を読んで、誰かの「ついで」で生きて。見えているのに、気づいているのに、何もしない。それが僕の十五年だった。
鈴木くんに言い返した日、僕は初めて「見てるだけ」をやめた。あの時、僕は誰のために立った? 母さんのためじゃない。家のためでもない。
――僕のためだ。
「見てるだけ」の自分のまま死んでいく僕自身が、どうしようもなく、嫌だったからだ。
そして明日……じゃない、今日。日没。
僕の目の前には、道具にされて、勝っても負けても自分のものになれない女の子がいる。僕はそれに、気づいてしまった。気づいたのに「見てるだけ」でいるなら、僕は十五年間の僕のままだ。
『僕は、僕を好きになるために戦う』
『それと――気づいたなら、ちゃんと、手を伸ばす』
書き終えた瞬間だった。
右手の甲が、かっ、と熱くなった。
「うわっ……!?」
金色の紋様が浮かび上がる。十三重の鎖。一番外側の錠前の、鍵穴の奥で――かちり、と。
小さく、でも確かに、何かが噛み合う音がした。
錠はまだ、完全には開いていない。でも鍵は、もう、鍵穴に刺さっている。あとは回すだけだと、感覚でわかった。
「……ほー」
いつの間にか漫画から顔を上げていたヴィムが、僕の手元を見て、口の端を上げた。
「宿題、できたみてえだな」
「ヴィムさん、あの、これ」
「言わなくていい。理由ってのは他人に説明した瞬間、安くなる。――それはお前の鍵だ。お前だけが持ってろ」
ヴィムは立ち上がって、伸びをひとつした。それから窓の外を見た。西の空が、燃え始めていた。
「時間だ」
その一言で、部屋の空気が変わった。
玄関で靴を履く僕に、母さんは「いってらっしゃい」とだけ言った。何も聞かなかった。ただ、僕のカバンに、小さな保冷バッグを押し込んだ。
「ヴィム先生と、半分こしなさいね」
中身は、聞かなくてもわかった。プリンが二個。
……うちの母さんは、やっぱり、ちょっと只者じゃないと思う。
外に出ると、夕焼けの道の先に、氷の蝶が一羽、浮かんでいた。
迎えだ。
蝶はひらりと翻って、ゆっくりと飛び始める。ついてこい、ということらしい。
「坊ちゃん」
隣を歩くヴィムが、前を見たまま言った。
「介添人として、最後に一個だけ助言だ」
「はい」
「勝ち方は教えた。氷の読み方も教えた。だがな――今日のあの嬢ちゃんに勝つ方法は、多分、俺の教えてねえところにある」
「……どういう、意味ですか」
「さあな。ただ、俺の教え子は昔から、教えてねえことで勝負を決めやがる」
ヴィムはそう言って、くしゃりと僕の頭を撫でた。初めてのことだった。
氷の蝶は、僕たちの学校の校門をくぐった。
そして僕は、息を呑んだ。
夕焼けの下、見慣れた校舎が――氷の城に、変わっていた。




