第13話 眠れない二人
決闘前夜。眠れなかった。
ベッドで一時間、天井を睨んで、僕は諦めて家を抜け出した。ヴィムには「よく寝とけ」と言われていたけど、目を閉じると氷の果たし状の冷たさばかり思い出すのだ。
夜の公園は、無人――ではなかった。
ブランコに、先客がいた。
街灯の白い光の下、制服のままの氷渡セツナが、揺れもせずに座っていた。
「……げ」
「『げ』って言った? 今」
「い、言ってないです」
「言ったわ。明日の対戦相手に『げ』って」
逃げるべきだった。たぶん、お互いに。でも彼女は動かなかったし、僕もなぜか、隣のブランコに座ってしまった。鎖がきしんで、夜に鳴った。
沈黙が続いた。気まずさの湯で煮込まれるかと思った頃、先に口を開いたのは彼女だった。
「眠れないの?」
「……はい。氷渡さんは」
「わたしは夜の見回り。決闘場の設営の確認」
「じ、じゃあ仕事中」
「仕事中よ。だから、これは休憩」
セツナはブランコの鎖に頬を寄せた。教室の完璧な姿勢とは、少しだけ違う座り方だった。
「ねえ、真昼くん。あなた、明日、来ないという選択肢もあるのよ。まだ」
「来なかったら譲渡扱いなんですよね」
「ええ。あなたは全部失って、でも、痛い思いはしなくて済む」
「……氷渡さんは、僕に来てほしくないんですか」
彼女は答えなかった。
街灯に、小さな羽虫がぶつかる音がした。
「――わたしね、五歳の時に初めて氷を出したの」
ぽつりと、彼女は言った。
「家中が喜んだわ。『百年に一人の才能』って。その日から、わたしの時間は全部、氷渡家のものになった。朝は水行、昼は学校で『完璧な氷渡の娘』、夜は術の練習。指が凍傷になったら、治して、また練習」
「…………」
「気づいてたでしょう、わたしの指。あなた、そういうのばっかり見てるものね」
「す、すみません」
「いいの。……誰にも気づかれないように隠してるものに、気づかれたのは、初めてだったから」
彼女の声は、怒っているようには聞こえなかった。
「明日、わたしが勝てば、氷渡家は十三家の序列を三つ上げる。わたしの『価値』も上がる。負ければ」
セツナは、す、と息を吸った。
「負けたら? って、家の誰にも聞かれたことがないの。氷渡セツナが負ける想定は、あの家には存在しないから。……ふふ。ね、変な話でしょ。勝っても道具、負けたら不良品。どっちに転んでも、わたしはわたしのものにならないの」
「――それ」
気づいたら、口が動いていた。
「それ、おかしいですよ」
「……何が?」
「だって、氷渡さんの指なのに。氷渡さんが、何千回も練習した、氷渡さんの努力なのに。それが全部、家のものだなんて。そんなの」
僕は、自分の右手の甲を見た。生まれつき握らされていた、重たい荷物。
「……そんなの、僕と同じじゃないですか」
セツナが、ゆっくりとこちらを向いた。
街灯の下で初めて見た彼女の素の顔は、教室の春でも、屋上の冬でもなくて――ただの、僕と同い年の、疲れた女の子の顔だった。
「……同じ、ね」
彼女は小さく笑って、ブランコから立ち上がった。仕事中の顔に戻っていた。
「でも明日、わたしはあなたを潰すわ。同情で緩む程度の仕込まれ方は、してないの」
「……知ってます」
「それでも来るの?」
僕は、頷いた。まだ「自分のための理由」は言葉になっていない。でも、その輪郭だけは、今夜、この公園で、はっきり見えた気がした。
「行きます。……行って、確かめたいことができたので」
「そう」
セツナは背を向けて、歩き出した。夜の向こうで、一度だけ立ち止まった。
「明日の日没、恨まないでね」
「恨みません。――どっちが勝っても」
彼女の肩が、ほんの一瞬、揺れた。
それから彼女は、振り向かずに夜に消えた。




