第12話 開かない錠
特訓二日目の科目は、「一錠目を開ける」だった。
「刻印の錠はな、魔力を流せば開くってもんじゃねえ。真昼家の刻印は、当主の『肚』に反応する」
河川敷の夕暮れ。ヴィムは僕の右手の甲を指した。うっすらと浮かんだ十三の錠は、一番外側のひとつだけが、あの日の夕方みたいに鍵穴を明滅させている。
「開きかけてはいるんだ。お前が鈴木とかいうガキに言い返した日からな。あと一押しだが――その一押しは、俺には教えられん」
「昨日の宿題、ですよね。……自分のために戦う理由」
「おう。見つかったか?」
「…………」
見つかっていなかった。
母さんのため。家のため。そこまでは、すぐ言える。でもその先を覗こうとすると、心の中に、のっぺりした白い霧がかかる。自分のため。自分のため? 僕が、僕のために何かを欲しがっていいんだっけ――と、そこで思考が止まってしまう。
「まあいい。体のほうは仕上げるぞ。今日は実戦形式だ」
ヴィムの実戦形式は、聞くだけで胃が痛くなる内容だった。ヴィムが氷渡の術を模した攻撃を放ち、僕はそれを「風が止まる瞬間」を頼りに避け続ける。それだけ。それだけが、死ぬほど難しい。
一回目。避けられずに顔面から草むらに突っ込んだ。
五回目。足首まで模擬冷気に「凍らされて」転んだ。
十二回目。風が止まった、と思った時にはもう遅かった。
「遅え。風が止まってから避けるんじゃねえ、止まる『気配』で動け」
「む、無茶苦茶言わないでください……!」
「二十三回目、いくぞ」
日が沈む頃、僕は草むらに大の字になっていた。全身が痛い。指一本動かない。
でも、最後の三回は――避けられた。
「……なあ、坊ちゃん」
ヴィムは僕の隣に腰を下ろして、プリンの蓋を開けた。今日の分の報酬らしい。
「お前、なんで言い返せたんだと思う? 鈴木のガキに」
「え……それは、その。糸が切れたっていうか」
「切れたのは糸じゃねえだろ」
ヴィムはスプーンをくわえたまま、夕焼けの川面を眺めた。
「俺はあの時、屋上から見てたがな。お前、避けられる拳を避けなかったろ。『ここで避けたら違う』って顔してた。……ありゃ、肚だよ。お前はもう一回、肚を決めたことがあるんだ。思い出せ。あの時、お前は誰のために立った?」
あの時。
鈴木くんに言い返した、あの夕方の教室。
僕は、誰のために――。
◇
家に帰ると、母さんが台所で、明日の弁当の下ごしらえをしていた。
「あら、おかえり。泥だらけねえ。お風呂沸いてるわよ」
「……ねえ、母さん」
僕は、台所の入り口に立ったまま、聞いた。三日間、ずっと聞けなかったことを。
「もし僕が……当主とか、そういうの、全部やめて、普通でいたいって言ったら、怒る?」
母さんは、包丁を止めた。
それから、振り向いて、きょとんとした顔で言った。
「怒るわけないでしょう」
「で、でも、そうしたら真昼家が」
「あのねえ、ケイ」
母さんは濡れた手をエプロンで拭いて、僕の前に立った。僕より頭ひとつ小さい母さんが、まっすぐ僕を見上げた。
「お母さんはね、十年間、あなたのお父さんの帰りを待ってるの。家とか刻印とかのためじゃないわよ? あの人が好きだから待ってるの」
「……うん」
「だからね、あなたも、家のためとか、お母さんのためとか、そういうので何かを決めるのはやめなさい」
母さんは、僕の胸を、指先でとん、と突いた。
「ここが『こうしたい』って言うほうに行きなさい。それで真昼家が消えるなら、そんなもの、消えていいのよ」
「……母さん、それ、当主の母の発言じゃないよ」
「あら、お母さんは普通のパート主婦ですから」
母さんはふふんと笑って、台所に戻っていった。まな板の音が、とんとんと再開する。
僕は風呂に浸かりながら、右手の甲を見つめた。
ここが「こうしたい」って言うほう。
僕は、どうしたい?
湯気の向こうに浮かんだのは、なぜか、袖口を引いて凍傷の痕を隠す、あの指先だった。




