知らぬが仏
物語の設定上、様々な死に方を示唆する表現、描写がございます。
ご了承の上お読みいただけますと幸いです。
彼岸花が咲き誇る川岸を、簪で黒髪を纏めた女が歩いている。左前に衿を重ねた黒い着物の下に立ち襟の白いブラウス、所々黒い蝶の柄が入った赤い袴、編み上げの黒いブーツ姿のその女は、金属の輪が複数付いた長い杖――錫杖から心地良い音を鳴らしながら、目的の場所へ向かっていた。
川のせせらぎを聞きながら歩みを進めていくと、ヒラヒラと上空を舞う黒いアゲハ蝶と、その下で大きな岩に腰掛け川を眺める人影を見つけた。女がその人影に近づくと、アゲハ蝶は役目を終えたとばかりに女の元へ飛んでいき、肩口に留まり羽を休めた。それと同時に、人影がゆっくりと女の方へ顔を向ける。細身の、少し腰が曲がった寝間着姿の老爺であった。
「ご機嫌よう。そして、この度はご愁傷さまです。私はこの彼岸へ迷い込まれた亡者の皆様をご案内する、案内人にございます。」
女、もとい案内人は微笑みを浮かべ老爺に挨拶をする。少し呆けた顔をした老爺であったが、すぐに納得したのか、口元のしわを濃くするように笑った。
「そうかそうか。三途の川みてぇだと思っちゃいたが、やっぱりここはあの世かい。俺にもとうとうお迎えが来なすったんだな。」
「左様でございます。しかし、本来であれば送迎課の担当者が枕元までお迎えにあがり、死後はまず死天山へご案内するのですが、何か手違いがあったようで、あなた様の魂は三途の川を飛び越え、ここ彼岸まで来てしまいました。担当者に代わりまして、心よりお詫び申し上げます。」
「はっはっは!俺は元々せっかちでな、死んでからもその性分が出ちまったみたいだ。こんな老いぼれ、早く死んだ方が良いと思っていたからな、その所為だろう。気にしなさんな。」
深く陳謝する案内人に対し、老爺は豪快に笑い頭を上げるよう伝える。その表情は晴れ晴れとしており、自身の死もこの状況も受け入れ、悔いのない人生であったと誇っているようでもあった。
「お気遣い痛み入ります。では、早速ですがご説明を致します。この場所はあなた様が辿るべき冥土の旅路から外れた所にございます。その為正しい道順へ戻れるよう、僭越ながら私がご案内をさせていただきます。しばらく歩くことになりますが、ご同行いただけるでしょうか。」
これからの事について手短に説明をすると、案内人はそっと老爺に手を差し出した。老爺は一度深く頷くと、その手に自身の手を重ねた。
「こちらこそ、よろしく頼むよ。いやぁ、もうすぐ閻魔様に会えるのか。思っちゃいかんのかもしれんが、少しばかり楽しみだな。」
「お先に初江王様、宋帝王様、五官王様による裁判がございますので、閻魔王様にお会い出来るのは当分先でございます。」
「何回も裁判を受けるのか。あの世も随分お役所仕事なんだなぁ。」
他愛も無い会話をしながら、老爺は手を引く案内人に合わせ、よっこらせと腰を上げた。
* * * * * * * * * * *
「この老体でも難なく歩けるのは嬉しいことだが、折角綺麗なお嬢さんの隣を歩くなら、俺がもっと若い色男だった時の見た目が良かったなぁ。」
案内人に手を引かれながら、老爺はゆっくりと、しかし確かな足取りで歩みを進める。生前に感じていた老いによる身体の痛みや疲労感、上手く手足を動かせないもどかしさは一切無く、十数年振りに、思い通り身体を動かせている感覚に老爺は気を良くしていた。
「亡くなった直後の魂は、ご自身が "人生で一番幸せであった" と思うその時の身体を模るそうなので、そのお姿は、あなた様が人生を謳歌し満足されているなによりの証でございます。勿論、あくまで魂が生前の姿を模しているだけなので、お若い頃の姿になることも可能ですよ。」
「……一番幸せ、か。確かに、病気になってから死ぬまでの間が、唯一親子になれた時間だったな。」
冗談交じりの発言に生真面目な返答をされ、老爺は少々面食らいつつも、返された言葉を受け自身の人生を振り返った。
「なあお嬢さん、目的地まであとどのくらいだい。」
「もうしばらくは掛かるかと存じます。」
「それじゃあ暇つぶしがてら、とある碌でもない男の身の上話でも聞いてくれんかね。」
「ええ。私でよろしければ、ぜひお聞かせください。」
案内人はにこりと老爺に笑いかける。老爺も気恥ずかしそうに少し笑うと、ぽつぽつと語り始めた。
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男は、小さな町工場を営む夫婦の間に産まれた。社長でありながら、自身も技術者として身を粉にして働く父を尊敬していた。父と工場を裏から支え、暖かく見守ってくれる母と、優しく気さくに接してくれる数少ない従業員達が大好きだった。
男が成人し少しした頃、いつか父から工場を継ぐため勉強に励んでいた矢先、父が倒れそのまま帰らぬ人となった。父とおしどり夫婦だった母は、その日を境に元気をなくしみるみると衰弱していった。男は若くして社長の肩書きと、町工場に勤める従業員の生活を背負うことになった。知識も技術も足りない分、男はがむしゃらに働いた。
父の急死から数年後、落ち込んでいた業績が回復し軌道に乗り出した頃、男は見合いで出会った女性と結婚した。それを見届け安心したかのように、直後に母は亡くなった。父と母の工場を守ろうと、男はより仕事に邁進していった。
二人の子宝に恵まれてからも、家の事は妻に任せ男は休みなく仕事に打ち込んだ。いつしか、工場は父の代よりも数倍大きな規模に成長していた。
妻が病に倒れても男は仕事を優先し、病室に見舞いに行ったのは片手で数える程度だった。妻の葬儀を終えすぐに仕事へ向かう男を、高校生の娘は薄情者と罵り、中学生の息子は冷たく睨みつけた。子育てをしてこなかった男にとって、子供達が望み通り進学し、何不自由なく生活出来るよう、仕事でその費用を稼ぐことしか自分に出来ることがわからなかった。
やがて、娘も息子も大学への進学を機に家を出ると、男と会うことも連絡をとることも一切無くなった。大学から届く学費の振込用紙だけが、二人との唯一残った繋がりであった。しかし、それも二人が大学を卒業したであろう頃から届かなくなり、どこで何をしているのか、全くわからない絶縁状態となってしまった。
無沙汰は無事の便りと自身に言い聞かせ、男は子供達の名義の通帳に貯金を続けながら孤独に暮らした。
「今なら、何を差し置いても子供達のために時間を作って、父親として、母親を亡くした悲しみと寂しさに寄り添うべきだったとわかる。だが当時の俺は、今更どう子供達と接すれば良いか悩んだ挙句、仕事に逃げた。時間を戻せるならやり直したい過去だよ。」
後悔の念と切なさが入り交じった遠い目をしながら、老爺は語った。
「それでも、ご自身の人生には満足されているのですね。」
「子供達のおかげさ。こんな老いぼれに最期には寄り添ってくれて、俺を父親にしてくれたんだ。」
先程の表情とは打って変わり、老爺は笑みを零しまた語り始めた。
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男が自身の子供達と音信不通になってから二十数年後、男はとうとう大きな病気を患った。手術しなければ2,3年の命、さらに、手術をしても必ず人の手を借りなければ生活出来ない状態になる、と医師から告げられた。
男は手術をするつもりは無かった。会社は既に信頼できる後進に託してあり、自身は隠居した身であった。誰かに迷惑を掛けながら生きるぐらいなら、潔く病気でそのまま死のうと考えていた。
宣告を受けてから数日後、妻が亡くなってから長年雇っていた家政婦が、会わせたい人が居ると家に客人を連れてきた。客人を見て男は驚いた。そこには妻によく似た顔立ちの女性と、自身の若い頃の面影を持った男性が居た。紛れもなく、中年になった娘と息子であった。唯一二人の連絡先を教えられていた家政婦が、余命わずかな男を不憫に思い、事情を伝え男と会ってくれないか懇願したのであった。
客間にはしばし気まずい空気が流れたが、男が子供達に、生活に不自由は無いかと口火を切ると、二人は少し顔を曇らせたが、少しずつ自身について話してくれた。
娘は、大学時代の同級生の男性と卒業から数年後に結婚した事、すぐ子宝に恵まれ、パートをしながら三人の男の子を育てている事、息子達の部活動や進学に悩みながら日々忙しく過ごしている事を。息子は、長らく独り身だったが数年前に結婚した事、最近待望の女の子が産まれた事、体が弱い娘の為に妻と助け合いながら暮らしている事を男に語った。
男は時々相槌を打ちながら静かに聞いていた。子供達が幸せな家庭を持ち、立派に親の務めを果たしている事に、ただただ嬉しさと感慨深さを感じていた。
近況を話し終えた二人は、続いて男に今後どうするのか尋ねた。男は、手術を受ける気は無い事、二人の事を心配していたが、今日成長した姿を見られて話が出来て、もう思い残すことは無い事を、二人への感謝と共に伝えた。
それを聞いた子供達は顔を見合わせ、意を決した様に頷くと、娘からある提案が出された。これから、自分がこの家に通い父の手助けをする。自分達のエゴで我儘なのは承知だが、どうか受け入れてくれないか、と。情況を飲み込めず困惑する男に、今度は息子が続ける。社会人として働き始めて自分で稼ぐようになって、やっと、何不自由なく生活出来ていたのは父のおかげだったと気付いた。学費も出してもらったのに、今更顔を合わせづらくここまで来てしまい、申し訳なく思っている、と。二人は立ち上がり男の手を取ると、真っ直ぐに男の目を見つめた。かなり遅くなってしまったが、今からでも家族として一緒の時間を過ごせないだろうか。そう言って、少し不安げに男に微笑みかけた。
ああ、自身の手は、いつの間にこんなに皺くちゃに小さくなったのだろう。子供達の手は、いつからこんなに大きく頼もしくなったのだろう。二人の手の温かさに男は涙し、ひたすらにありがとう、ありがとう、と呟いていた。
その後、男は自身の家で娘に介護してもらいながら余生を過ごした。病院嫌いな男のため、息子が病院に赴き薬をもらい、苦い薬を飲みたくないと拒む男を娘が励まし、様々な工夫を凝らしたおかげで、嫌々ながらその薬を毎日飲み続けることが出来た。娘は大半の時間を実家である男の家で過ごし、身の回りの世話だけでなく、家政婦に代わり家事も一手に引き受けるようになった。息子も定期的に様子を見に来るようになり、病院を含め様々な手続きの代行を引き受けてくれた。苦労する事も多かったはずだが、二人は他人の手は借りず、残り少ない男との時間を大切にするように、協力しながら男の容態を見守った。
ある時、娘が自分の子供達、男の孫を連れてきた。初めて会う老爺を祖父と紹介され、孫達は最初は戸惑いの表情を見せたが、男に楽にするよう促されると少し緊張が解れたのか、順番に自己紹介を始めた。
娘の子供達はそれぞれ優秀で、高校生の長男は医学部を目指して勉学に励んでいる事、中学生の次男は野球で強豪校のスポーツ推薦を貰った事、三男は英語の勉強が楽しいらしく、将来海外留学に行きたい事を話してくれた。男は楽しそうにその話を聞いていた。
幼い孫娘とはビデオ通話で顔を合わせることが出来た。孫娘は息子の妻に抱えられながら、しばらく不思議そうにこちらを見つめていた。鼻のチューブが痛々しかったが、次第に愛らしい笑顔を見せるようになり、男をじいじと呼び、通話を終える時には画面越しに小さな手を一生懸命に振ってくれた。
男は、この幸せに満ちた時間をもっと過ごしたいと思うのと同時に、自分は長く生きてはいけないとも感じていた。娘と息子が家族として自分と過ごす程、孫達が親と共にする時間を奪うことになる。家族を顧みず、子供達が幼い頃に一緒に居なかった男だからこそ、孫達のためにも二人には自身の家庭を大切にして欲しいと願った。
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「結局家族とは一年も過ごせなかったが、これで良かったと思うよ。死にかけの爺さんに労力を使うより、可愛い子供達と掛け替えのない時間を過ごす方がよっぽど良い。独り寂しく死ぬもんだと思っていたのに、子供と孫に看取ってもらえたんだ。俺にはこれだけでもう十分さ。」
「幸せと思える最期をお迎えになられたのであれば、何よりでございます。」
「ああ、そうだな。俺は幸せ者だなぁ。」
そう言って、老爺は満ち足りた屈託のない笑顔を案内人に向けた。案内人もまた老爺にニコリと微笑み返した。
いつの間にか周囲に彼岸花の赤色は見えなくなり、老爺と案内人は大きく開けた川原に辿り着いていた。遠くの方で、三途の川に架かる大きな橋と何人かが乗った舟が見える。泳いできたのか、川岸にはずぶ濡れの者も数名居る。
「大変お疲れ様でした。合流地点に到着いたしました。私の案内はここまででございます。あちらに見えます、衣服が掛かった大木の根元に奪衣婆様と懸衣翁様がいらっしゃいます。あなた様の事は既にお伝えしておりますので、まずはお二方の元へ向かいその後の指示を仰いでくださいませ。」
「何から何まで、世話んなったね。お嬢さんと話せて道中楽しかったよ。人生を振り返って、改めて幸せを実感出来て良かった。恩に着るよ。」
「お力になれて光栄です。まだまだこの先長い道のりがございます。あなた様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。どうぞ、いってらっしゃいませ。」
「ああ、ありがとう。そんじゃ、行ってくるよ。」
お辞儀をして見送る案内人に、老爺は笑顔で軽く手を振ると、大木の方に歩みを進めていく。老爺の背中が小さくなったのを見届けると、案内人は踵を返しまた来た道を戻っていく。
その顔は――なんとも冷ややかな表情をしていた。
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寿命を迎え亡くなった魂は、現世に留まらないよう、送迎課の者が枕元まで迎えに行き冥土まで付き添う決まりになっており、そこに例外は無い。つまり、三途の川を超え彼岸に来てしまった魂は、様々な理由はあれど、確実に寿命を迎える前に亡くなった者達である。
家族が献身的に世話したにも拘わらず、医師が宣告した余命よりも早くに亡くなった老爺。外との繋がりを全て断ち、誰にも見られないよう世話をした子供達。
息子が調達し、娘が一生懸命飲ませた薬は、果たして本当に薬だったのか。あえて隠したのか、認識していないのか、老爺の目線では語られなかったなにかが……。
「……たかが案内人が考えることではありませんね。」
そう呟き、案内人は思考を止めた。
どうせ、当の老爺本人が後の裁判で真実を知り、その真実を基に十王に裁かれるのだ。今知る必要も、こちらが指摘する義理も無い。たとえ束の間でも、幸せだと思っているのならそれに超したことは無いだろう。
――無知は罪とよく言いますが、知らぬ方が幸せな事も有るのですね。
そんな事を思いながら、案内人は再び歩き出す。その顔は、普段通りの感情の読めない微笑みを浮かべていた。
『知らぬが仏』 終




