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第5話「宇宙レベルのトラブルです。お任せください、すぐにお伺いします」

 書類の山は、昨日より少しだけ低くなっていた。

 ほんの少しだけ。誤差の範囲と言われればそれまでだが、のどかにとっては確かな前進だった。朝から黙々と処理を続け、昼をまたぎ、気がつけば午後の日差しがオフィスの窓から斜めに差し込んでいる。

 一区切りついたところで、のどかはデスクの引き出しを開けた。

 奥の方に忍ばせておいた小さな紙袋。中から丁寧に包装された箱を取り出し、蓋を開ける。リンゴの香りがふわりと広がった。

 生チョコだ。薄紅色の断面に、リンゴの果肉がきらきらと覗いている。

 一粒つまんで口に運ぶ。甘さの中にリンゴの酸味がすっと抜けて、疲れた脳に染みわたるような味がした。

 のどかは小さく頬を緩めた。


「今日はずいぶんとうまそうじゃないの」


 課長の声が、斜め後ろから飛んできた。椅子に深く腰掛けたまま、こちらをちらりと見ている。


「はい。ツーリングのお土産にもらったリンゴの生チョコです。お一つどうぞ」


 のどかが箱を差し出すと、課長は遠慮なく一粒つまんだ。


「今度は青森まで行ったわけ、彼」

「また長野県みたいです。なんか気に入ったみたいで、今度はアップルラインを軽く流してきたらしいですよ」

「わざわざ買ってきてくれるなんて、新人は愛されてるねぇ」

「やめてください、ただのお裾分けですよ」


 課長はうまいうまいと言いながら生チョコを噛み、のどかはもう一粒手を伸ばし――その手が、止まった。

 部屋に、聞いたことのない音が響いた。

 通常のアラートではない。人災でも都市災害でもない。のどかがこの部署で耳にしてきたどの警報とも違う、低く重い電子音が、オフィスの壁を震わせるように鳴り渡った。

 天井のスピーカーから、機械音声が流れる。


『宇宙災害レベル警報発令。繰り返します。宇宙災害レベル警報発令』


 のどかの指から、生チョコがぽろりとこぼれ落ちた。

 宇宙災害。

 研修資料の文字では知っていた。災害階層の最上位。一般市民には非公開。星間戦争級。あの分厚いマニュアルの中で「実際に発令された記録はごく少数」と注釈がついていた項目だ。

 それが今、鳴っている。

 アナウンスと同時に、課長のデスクの電話が鳴った。

 課長はすでに椅子から身を起こしていた。生チョコを飲み込み、受話器を取る動作に一切の無駄がない。先ほどまでの姿はどこにもなかった。

 短いやりとり。課長の声は低く、簡潔だった。相槌とも確認ともつかない単語がいくつか交わされ、数十秒で電話は終わった。

 受話器を置いた課長が、のどかの方を向く。


「今しがた、太陽系内に銀河帝国のものと思われる宇宙艦隊が侵攻してきた」

「え、いきなり最大級じゃないですか」

「規模は楽観的に見積もって一個師団ってところだ」

「ヒーローが束になって出動するレベルじゃないですか……!」


 のどかの声がわずかに上擦った。それでも声を荒げなかったのは、この数ヶ月で身についた職業的な自制だった。

 課長がデスクの端末を操作すると、壁面の大型モニターに映像が映し出された。

 土星だった。

 土星の環の手前に、影のような塊が次々と出現している。超弩級戦艦。一隻ではない。十隻でもない。画面を埋め尽くすように、整然とした陣形を組みながら出現し続けている。

 素人目にも練度がわかった。あの並び方、あの間隔、あの出現タイミングは訓練された軍隊だ。


「……現実的に見積もった場合は、どうでしょう」


 のどかは声を落として訊いた。


「観測班からの最新映像で、軍団規模と予想されるな」


 師団ではなく、軍団。桁が一つ上がった。


「これ、地球どころか太陽系ごと消し飛びませんか?」

「まぁ、そういう連中だ」


 課長はそう言いながら、デスクの書類をめくっていた。手が震えていないことに、のどかは気づいた。あるいは気づかないふりをした。

 再び課長のデスクの電話が鳴った。

 課長が受話器を取ると同時に、モニターの映像が切り替わった。ノイズ混じりの荒い画面。輪郭だけがかろうじて判別できるシルエットが映し出される。

 人型――いや、ロボットか。のどかの目には、それが何であるのか正確には判断できなかった。輪郭の向こう側が、意図的にぼかされているようにも見える。


「やぁ久しぶり! 今こそ我の出番だと思うのだがどう思うかね課長っ!」


宇宙災害の真っただ中に、休日の誘いでもするような妙に明るい声がが響く。


「いや、あなたに出てもらうほどじゃないですよ」


 課長が即答した。即答の速度が異常だった。


「何を言う。地球のっ——いや、太陽系のピンチじゃないか!! 我がんばっちゃうぞ~」

「あなたにはりきられたら銀河が持ちませんよ」

「我慢するからっ。ちゃんと手加減するから。ちょこーっとだけ、ほんの先っちょだけだからっ。マジでマジで」

「そんなこと言って、この間のオイタ忘れたわけじゃないですよね。文字通り次元が違うんだから、大人しくしてなさいよ」


 のどかは、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。

 宇宙災害より上。

 書類にはない。マニュアルにもない。噂ですら聞いたことがない。災害階層のさらに外側に、この世界にはまだ何かがある。

 モニターに映るシルエットの正体も、課長との関係も、何もわからない。わからないが、あの軽い声の主が「本気を出したら銀河が持たない」という課長の言葉だけが、冗談に聞こえなかった。



「暇ならゴルフでもしてなさいな」

「ゴルフ!?」


 自分でも驚くほど素直に声が出た。

 宇宙が危機に瀕しているこの状況で、銀河を壊しかねない存在にゴルフを勧める課長と、それを受け入れかけているシルエット。どこからツッコめばいいのかわからなかった。


「おっ、いいねー。新しいアイアン買ったから今度行こうよ」

「はいはい、休みの都合がついたらね」


 課長はそう言いながら、あっさりと電話を切った。

 モニターのノイズが消え、再び土星圏の映像に戻る。銀河帝国の艦隊は、依然として増え続けていた。

 だが課長の空気が、さっきとは違っていた。

 苦笑いを浮かべながらデスクの脇に積まれたファイルの束に手を伸ばし、パラパラとページをめくり始めている。肩の力が抜けている。先ほどの電話で何かが変わったわけではないはずなのに、部屋の中の緊張が一段下がったように感じた。


「あの、課長。先ほどのは——」

「んー、いいのいいの。今はただの、力を持て余した暇人がいるってだけ覚えてれば」

「……そうですか」

「連中らが暇してるのが一番なんだけどねぇ。まぁ新人もあと二年もすれば紹介するよ」


 二年。二年後にはあのシルエットの正体を知ることになるのだろうか。のどかは少しだけ背筋が冷えるのを感じたが、今はそれどころではなかった。

 課長は「さてっ」と小さく呟き、ファイルに目を落とした。

 のどかも自分のデスクに戻り、別のファイルを手に取る。派遣候補リスト。宇宙災害対応の戦力一覧がずらりと並んでいる。分厚い。課長が手にしているファイルはさらに分厚く、そして形が違う。通常の業務ファイルではない。

 あれはおそらく、のどかの権限では閲覧できないクラスのものだ。

 しばらく課長がページをめくる音だけがオフィスに響いていた。思案するように指が止まり、また動き、また止まる。

 やがて、課長の手がぴたりと止まった。


「こいつでいくか」


 呟きとともに、課長はデスクの通信端末を操作した。モニターの土星圏映像が隅に縮小され、画面の中央に通信接続中の表示が浮かぶ。


「誰かいい人いたんですか?」


 のどかは椅子ごと身を乗り出した。


「もしかして光の巨人さんたちの兄弟とか、合体したりドリルで貫いてくれるロボさんとか?」

「いや、ただの人間よ」

「チート持ちですか? 宇宙災害に対応できるとなると限られてきますけど」

「いいや、本当にただの人間。鍛えてはいるけど、一般的な人間の範疇だ」

「……筋肉の妖精さんでもないんですね」

「あれはなんでも物理で解決してくれるけど、今回はさすがにパワーが足りないんじゃないかな」

「この間、パンチで地球割ろうとしてましたよ」

「あいつはまーた地球重トレーニングとか称して。今度会ったらラムネでも口に流し込んでやる」


 のどかは自分の知識を総動員して考えた。ただの人間。鍛えてはいるが一般的な範疇。チートなし。それで銀河帝国の軍団規模の艦隊を止められる人物が、この世界に存在するのだろうか。

 ファイルのページに指を添わせながら、ちらりと課長の方を見た。

 課長は通信の接続を待ちながら、どこか楽しそうな顔をしていた。珍しい表情だった。昼行灯でも苦笑いでもない。信頼、とでも呼ぶべきものが、その目の奥にあった。


「宇宙を手に入れた男さ」


 課長がそう言った直後、モニターの映像が切り替わる。

 そこには軍服に身を包んだ、燃え盛るような金髪で、どこか獅子を思わせる風貌の若い青年が座っていた。

 凍った湖のような済んだ瞳をしており、人を寄せ付けない空気をまとっている。それでいて人を従わせてしまう覇気が、モニター越しにも伝わってくる。


「貴公、久しいな。壮健にしておったか」


 声は若い。だが言葉の重みが、年齢と釣り合っていない。

 この青年が何者かはわからないが、ただの人間ではないことだけはわかる。いや、課長はただの人間だと言った。なのにこの威圧感は、純粋に個の力なのだろう。


「おう、まあぼちぼちだよ。そっちこそ元気そうで何より」


 課長の口調は、いつも通りだった。宇宙を手に入れた男を相手にしても、課長は課長だった。


「して、なに用か。俺に直々に連絡を取るなど」

「銀河帝国と名乗る奴らがこちらにちょっかいかけてきてな。そいつをちょいとばかし懲らしめてやってほしいんだ」

「ほう」


 金髪の青年が、どこか面白そうな、それでいて不快そうな獰猛な笑みを浮かべた。


「そやつらは銀河帝国と称しているらしいが、お前はどう思う?」


 青年の言葉は、隣に向けられていた。

 モニターの画角が少し引かれると、金髪の青年の横にもう一人の人物が控えていた。

 赤い髪。穏やかな目元。金髪の青年とは対照的な、柔和な笑みを湛えた青年将校。


「閣下以外の何者にそれが叶いましょう。別の宇宙の話とはいえ」


 確信に満ちた静かな声だった、それでいて押しつけがましさがない。金髪の青年への敬意と、それ以上の何かが、短い一言に込められているのがわかる。


「わ、優しそう……。しかも赤毛……ストライクすぎる……」


 口に出ていた。のどかは自分の声に気づいて、一瞬で固まった。

 モニターの向こうで、赤髪の青年将校がこちらを向いた。穏やかな笑みが、ほんの少しだけ深くなる。


「そちらのお嬢さんは?」


 聞かれていた。完全に聞かれていた。

 のどかは耳まで赤くなるのを感じながら、言葉を探した。見つからなかった。両手でファイルを握りしめたまま、椅子の上でもじもじと身体が揺れる。


「うちの期待の新人だ。見ての通りウブなんでな、あんまりいじめてやんな」

「す、すいません。その、お二人が仲の良い兄弟というか、双子に見えたというか……まるで半身のような……いえ、すいません、全然違うのに私なに言ってんだろ」


 しどろもどろだった。自分でも何を言っているのかよくわからない。ただ、モニターに映った二人の並びを見た瞬間に、直感的にそう感じてしまったのだ。

 金髪の青年と赤髪の青年が、同時に表情を変えた。

 驚いたような顔。それから金髪の青年はどこかおかしそうに声に出して笑う。

 赤髪の青年が珍しいものを見るように、穏やかな目で金髪の青年を、そしてのどかを見つめている。

 課長は腕を組んだまま、のどかを横目で見ていた。


「ふふふ、こんなにも声を出して笑ったのは久しぶりだぞ、課長」


 金髪の青年が、笑いの余韻を残したまま言った。


「いいだろう。この依頼は、俺が直々に出てやろう」


 立ち上がる。その一動作で、モニターの向こうの空気が変わった。


「全艦、出撃準備。目標、彼の宇宙に侵入した不届き者どもだ」


 画面の奥が慌ただしく動き始める。人影が走り、計器が光り、号令が飛び交う。一つの命令が、巨大な機構を動かしていく。


「敵にはただ一つ誤算がある」


 金髪の青年がモニターに向き直った。アイスブルーの瞳が、静かに燃えていた。


「俺がここにいた事だ」


 ◆


 モニターが再び土星圏の映像に切り替わったとき、のどかは息を呑んだ。

 黄金だった。

 画面の左半分を、金色に輝く艦隊が埋め尽くしていた。整然と並んだその規模は、銀河帝国の艦隊と同等か細部を見れば、それ以上かもしれない。旗艦と思しき巨大な戦艦を中心に、幾何学的な陣形が完璧に組まれている。

 さらにその左右には、見覚えのある機影が展開していた。ヒーローたち。ロボ軍団。日本支部の各種兵器。宇宙災害対応で派遣された戦力が、金色の艦隊の翼のように広がっている。

 艦隊内の映像も中継されていた。白兵戦装備の兵士たちが通路を駆ける姿。甲板で待機する小型艇の群れ。そのどれもが、隙のない動きをしていた。


「そりゃ完封ですよね……」

「これで勝てなかったら宇宙ごと終わりだ」


 開戦から1時間。

 金髪の青年の号令とともに始まった戦いは、すでに戦局が決していた。

 正面からの力と力のぶつかり合い。そう見えたがモニターの映像を追っていたのどかが、ふと気づいたときには、敵艦隊が包囲されていた。

 いつ、どの段階で陣形が変わったのか。のどかにはわからなかった。正面衝突の最中に、いつの間にか側面が塞がれ、退路が断たれていた。見ていたはずなのに、見えなかった。


「閣下さんの軍だけでも勝てたんじゃないですか?」

「ああ。だが彼、彼らと言うべきか。使えるものは使う。それが本物ってわけだな」


 のどかはちらりと課長を一瞥した。

 使えるものは使う。

 それは課長も同じではないですか、という言葉は飲み込んだ。

 モニターに赤髪の青年将校が映った。戦況報告を行っているらしい。穏やかな声は、戦場の中にあっても変わらなかった。


「兵を無駄に損耗させる必要はないからね。ともに戦い、最小の犠牲で勝利する。それこそ指揮官の努めだ」


 その隣で、金髪の青年は頬杖をついて戦況画面を見ていた。すでに興味を失ったような目。銀河帝国の艦隊は潰走し、宇宙の藻屑と消えていっている。


「ふん、つまらん。やはりおれの宿敵たりえるは一人のみか」


 誰に向けたわけでもないその呟きが、通信に乗って聞こえた。

 金髪の青年が立ち上がる。


「俺とお前の宇宙に帰るぞ」


 その一言を最後に、黄金の艦隊が一斉にワープに入った。

 光が膨らみ、収縮し、消える。政府指定の宇宙災害級転移能力を持つ者の手によって、艦隊はこちらの宇宙から跡形もなく去っていった。

 土星圏の映像には、もう何も映っていなかった。環の影と、星の光だけが、静かに揺れていた。


 ◆


 銀河帝国の艦隊を撃退してから、10日ほどが過ぎた。

 地球にいくつかの隕石群が接近した。そのほとんどは大気圏で燃え尽きたが、小石ほどのサイズのものがいくつか地表に到達した。

 そのうちの一つが渋谷のハチ公に当たった。

 幸いなことにハチ公像は健在だった。台座も胴体も尻尾も無事。ただ、右耳の先端だけが、ほんの少しものの見事に欠けていた。


「……やっぱりあの隕石って、先の事件と関係あるんですかね」

「因果関係は認められてない」

「いやいや、宇宙規模で動いて被害が耳だけですか」

「因果関係は認められていない」


 課長は二回言った。二回目のほうが少しだけ力がこもっていたのは、おそらく書類上の都合だろう。

 のどかは深くため息をついて、報告書のテンプレートを開いた。

 宇宙災害の事後処理。人類が知らない規模の戦いの結末が、ハチ公の右耳。

 この世界は、たぶん大丈夫だ。

 根拠はないが、そう思った。



 ――業務日誌――


 案件名:銀河帝国艦隊襲撃事案

 発生場所:土星圏内

 災害区分:宇宙災害

 被害状況:渋谷区・ハチ公像右耳損壊(軽微)

 対応:常勝の英雄艦隊+日本支部各種戦力

 備考:隕石群と本事案の因果関係は認められないため、ハチ公像損壊については人災として別途処理済み。修繕費用の請求先は現在協議中。


 ※観測できない災害は人災扱いとして処理済み。

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