第8話④「世界はそれを愛と呼ぶそうです」
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世界は閉じた。
音も光も、人の気配も、すべてが遠くなって——最後に残ったのは、白だった。
白い空。白い地面。境界線のない、のっぺりとした空間。上も下もなく、奥行きもなく、ただ白だけが広がっている。
その中に、マインは立っていた。
さっきまで隣にいたお姉さんは、もういない。頬に残っていた温度も、とっくに消えた。あの人が最後に何を言おうとしたのか、わからないまま。たぶん、一生わからない。
マインは自分の手を見た。透けてはいない。自分だけは、ちゃんとここにいる。世界の全部を消しても、自分だけは消えない。それが嬉しいのか悲しいのか、もうよくわからなかった。
——ぱん、と音が弾けた。
突然だった。白い空間のどこかで、電球が割れるような明るい音。続けて、もう一つ。もう一つ。音が連鎖して、白い世界に色が差し始める。
赤。青。黄色。金。紫。
光が跳ねた。スピーカーから明るい音楽が流れ出す。大げさなファンファーレ。どこかで聞いたことのある、陽気すぎるメロディー。
足元にタイルが現れた。パステルカラーの、安っぽいけれど隙のないデザイン。左右にはポップな街灯が並び、その向こうに観覧車のシルエットが見える。ゲートのアーチが頭上に架かり、光る文字が点滅している。
夢の国。
マインの目の前に、いつの間にかそれは出来上がっていた。自分が作ったのか。無意識に、心の隅に残っていた景色を引っ張り出したのか。マインにはわからなかった。ただ、その場所は知っていた。子供の頃に一度だけ連れて行ってもらった、あの場所に似ていた。大人になったら、大切な人ともう一度行きたかった場所。
遊具が動いている。メリーゴーランドが回り、コーヒーカップが揺れ、どこかでジェットコースターのレールが軋んでいる。音だけは、やけに賑やかだった。
けれど、誰もいない。
客席は空で、通路には影ひとつなく、売店のカウンターには誰も立っていない。音楽と光だけが全力で稼働している空っぽの遊園地。世界で一番賑やかな、世界で一番寂しい場所。
——ハハッ!
声がした。
マインが振り向くと、パレードの山車の上に、巨大なマスコットが立っていた。丸い頭に、大きな目に、裂けるような笑顔。手を大きく広げて、スポットライトを一身に浴びている。
「ここは夢と希望の国だよ!」
マスコットが山車から飛び降りた。着地の衝撃でタイルがわずかに揺れる。見た目に反して、重い。
「悲しいことも、寂しいことも、ぜーんぶ忘れちゃおう! ここでは、誰も泣かないんだ!」
「……そうですか」
マインの返事は、あまりにも静かだった。パレードの音楽がそれをかき消しかけたが、マスコットには聞こえたらしい。丸い目をぱちくりとさせて、少し首を傾げた。
「うんうん! 笑顔は最高の魔法だよ! キミも笑って! みんな笑えば、世界は幸せなんだ!」
マスコットは軽快に跳ねながら近づいてくる。一歩ごとにタイルが光り、足元から星のエフェクトが飛び散る。完璧な演出だった。子供なら、たぶん喜ぶだろう。
「……そんなに、みんな笑ってたら、疲れませんか?」
「えっ?」
マスコットの動きが、一瞬だけ止まった。笑顔は張りついたままだったが、目の奥の光がわずかに揺れた。
「ずっと笑ってるのって、しんどいですよ。それに、泣いてもいいじゃないですか。笑顔だけなんて、まるで——」
マインが足元のぬいぐるみを見下ろした。パレードの沿道に並べられた、小さなぬいぐるみたち。どれも同じ顔、同じ笑み。目の形も、口の角度も、すべて同じ。
「……同じ形に、削られてるみたい」
「いやいや、違うよ! ここは"優しい世界"さ!」
マスコットが両手を広げた。声は明るい。明るすぎた。
「優しい?」
「そう! 誰も傷つけない、完璧な場所! 誰も悲しまない、最高の世界なんだ!」
マスコットは自信に満ちていた。この世界の中では、彼は王だった。全能で、陽気で、揺るがない笑顔を持っている。
「……それって、誰のための?」
「え?」
「誰も傷つけないって、あなたが傷つきたくないだけじゃないですか?」
マスコットの笑顔が、ほんのわずかに硬くなった。表情は変わらない。変わらないのに、空気が変わった。
「…………」
「優しい世界って、本当は"誰も違わない"世界のことなんですよね。同じ顔、同じ笑顔、同じ言葉。それなら——」
マインは一歩、踏み出した。
「もういいです」
空気が軋んだ。メリーゴーランドの音楽がぐにゃりと歪む。
マスコットが手を伸ばした。笑顔のまま。けれど、その手は震えていた。
「ま、待って! みんな同じで、いいじゃないか!」
マインの指先がマスコットの頬に触れた。
さっき、お姉さんが自分にそうしたように。けれど、意味はまったく違っていた。
——ぱきん。
小さな音がした。
マスコットの笑顔にヒビが入った。目の下から頬にかけて、細い亀裂が走る。内側から白い光が漏れ出す。マスコットの目が、初めて笑っていなかった。
「同じじゃないと怖いのは、あなたの方です」
マインが手を離した。
マスコットの体に亀裂が広がっていく。全身をヒビが覆い、笑顔が崩れ、光が溢れ——
「ハハッ!」
最後の笑い声が響いた。一拍遅れて、反響が追いかけてくる。笑い声がゆっくりとフェードアウトしていく。その音が薄れていく途中で、ガラスが砕ける音と重なった。
マスコットが砕けた。
光の破片が宙に舞い上がり、パレードの山車に降り注ぐ。メリーゴーランドが止まり、観覧車が止まり、ジェットコースターのレールが静かに錆びていくように色を失った。スピーカーから流れていた音楽が、一音ずつ欠けていき、最後の一音がぷつりと途切れた。
光が消えた。
夢の国が、粉雪のように静かに崩れていった。色が落ち、形が溶け、タイルが白に還っていく。遊具のシルエットが霧に沈み、ゲートのアーチが崩れ、光る文字が一文字ずつ消えていく。
大人になったら、大切な人ともう一度行きたかった場所。その景色が、砂のように指の隙間からこぼれていく。
最後に残ったのは、白だった。
さっきと同じ白。何も始まらなかった場所と、何も残らなかった場所は、同じ色をしていた。
マインはひとり、立っていた。
音もない。光もない。風の気配すらない。呼吸も、脈も、ただ遠くのように。世界の全部を消して、自分だけが残った。それが望んだことなのか、望まなかったことなのか、もうわからなかった。
「……これで、いい」
声は誰にも届かなかった。届ける相手が、もういなかった。
すべてがなくなった。優しさも、笑顔も、誰かの声も。最後のお姉さんの温度も、マスコットの笑い声も、全部。
自分の呼吸さえ、もう聞こえない。




