表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
43/43

第8話⑤「世界はそれを愛と呼ぶそうです」

 ◆


 ——ざく。


 足音。

 白の中に、かすかな音が落ちた。


 ——ざく、ざく。


 ゆっくりとした、何の緊張感もない歩き方。世界が終わった後に聞こえる音としては、あまりにも普通の足音だった。


「……?」


 マインは顔を上げた。白の靄の向こうに、人影がある。ゆらゆらと揺れながら近づいてくる。

 一人の青年だった。

 パーカーにジーンズという、どこにでもいるような格好。その片手にマスコットの頭をぶら下げている。さっき砕けたはずのマスコットの、あの丸い頭。ヒビだらけで、中の光はもう消えている。それを片手にぶら下げたまま、もう片方の手でぼりぼりと頭を掻いている。


「あのー……もう閉園、ですかね」

「……え?」

「いや、その……バイト終わったのに出口がなくて。もしかして、また迷子ですかね俺」


 どうでもいい声だった。


 世界が消えた後の、何もない白の中で、その声だけがやけにはっきり聞こえた。迷子。バイト。出口。世界の終わりとは何の関係もない単語が、雪の上に足跡をつけるようにぽつぽつと落ちていく。


「……閉園ですよ」

「マジか……またタイムカード押し忘れた……」


 マインは、この青年を理解できなかった。


 世界が消えている。音も光も人も消えている。自分がそうした。なのにこの青年は、タイムカードの心配をしている。怖がっていない。驚いてもいない。ただ、困っている。迷子だから。


「あなた、誰?」

「えっと……バイト。たぶん」

「……たぶん?」

「いや、あんまり自信ないんです。バイト先でもよく『お前、何考えてんだ』って言われて」


 青年は困ったような顔で笑った。困っているのに笑える人間を、マインは初めて見た気がした。さっきまでの人たちは、みんな笑顔の裏に何かを持っていた。自信か、目的か、使命か。この青年の笑顔の裏には、何もなかった。本当に、何も。


「幼なじみにも振られるし、五つ子には勘違いされるし、レンタル彼女には説教されるし……」

「…………」

「あ、でも誤解しないでくださいね。浮気とかじゃないです。ただ、人の気持ちがよくわかんないっていうか……」


 マインは静かに首をかしげた。


 この青年は、自分の話をしている。求められてもいないのに、聞かれてもいないのに、ただ自分のどうしようもない話を、雪の中にぽとぽと落としている。世界が終わっていることに気づいていないのか、気づいていて気にしていないのか。たぶん、前者だ。


「……あなた、最低な男じゃないですね」

「え?」

「本当に人を傷つけたくない人は、たぶん、うまく笑えない人ですよ」


 青年は少し困ったように笑った。さっきと同じ笑い方だった。困っているのに笑う。笑っているのに困っている。どっちが本当かわからない。たぶん、どっちも本当だった。


「いや、笑わないと怒られるんで。バイト先で」

「ふふ、そうですか」


 マインは笑っていた。自分が笑っていることに、少し遅れて気づいた。いつぶりだろう。さっきのお姉さんと話しているときは、笑えなかった。マスコットの前でも、各国の代表の前でも。なのに、この青年の前では——。


 風が吹いた。


 風のなかった世界に、小さな風が吹いた。二人の間を抜けて、白い何かを巻き上げていく。雪ではない。世界の残骸が、粉になって舞っているのだ。けれど、風の感触は本物だった。冷たくて、乾いていて、冬の匂いがした。


 少し沈黙があった。青年はマスコットの頭をぶらぶらと揺らしながら、白い空をぼんやりと見上げていた。


「……出口、どこですかね」

「ないですよ。出口なんて」

「えー……困ったな。バイト代もらえないじゃん」

「…………」

「あ、でも帰れたらコンビニ寄ろうかな。かき氷でも買って」

「……かき氷? 今、冬ですよ?」

「うん。でも、なんか食べたくて。冷たくて甘いやつ」


 マインは青年の横顔を見た。何も考えていない顔だった。本当に、何も。かき氷が食べたいから食べる。冬だろうが関係ない。それだけの話。


 マインの目に、何かが滲んだ。涙ではなかった。涙を忘れた目に、ただ光が戻ったのだ。白一色だった視界に、ほんのわずかに色が差す。青年のパーカーの紺色。マスコットの頭の、ヒビだらけの赤。自分の指先の、冷えて白くなった肌色。


 マインが一歩、踏み出した。白い地面に足跡がついた。もう一歩。青年の足跡の隣に、自分の足跡が並んだ。


 二人の足跡が、白の中に続いていく。


 風が吹いた。今度は、もう少しだけ強く。白い粉が舞い上がって、その向こうに——ほんのわずかに、空の色が見えた。


 世界が、静かに、ゆっくりと、戻りはじめた。


 ◆


 翌朝、世界は何事もなかったように動いていた。


 電車は走り、信号は変わり、コンビニの自動ドアは客を迎えている。昨日まで世界が消えかけていたことを知る人間は、防衛軍の関係者を除けばほとんどいない。知っていたところで、何が起きたのかを説明できる人間は、もっといない。


 のどかは自分のデスクに座っていた。モニターは正常に稼働している。各国の監視網も復旧済み。小型怪獣保護施設のライブカメラには、赤ちゃん怪獣が三匹、いつも通り毛布の上で団子になって寝ていた。一匹だけ寝相が悪いのも、いつも通りだった。


 隣では、エミリが何事もなかったように端末を叩いている。ヨルさんは夜勤明けで帰ったらしく、デスクの上に空の紙カップだけが残っていた。


 何も覚えていなかった。


 のどかも、エミリも、ヨルさんも。消えていた間の記憶は、誰にもない。気がついたら朝で、気がついたらデスクに座っていた。モニターには「観測不能事象:収束」の文字だけが表示されていて、それ以上の情報はどこにもなかった。


「……課長」

「ん」


 課長はマグカップを持って、窓の外を見ていた。冬の曇り空。粉雪が少しだけ舞っている。いつもと変わらない、二月の朝だった。


「結局、あの件はどうなったんですか」

「どうもこうも。報告不能だよ」


 課長はコーヒーを一口飲んだ。


「世界が消えて、戻ってきた。それだけだ」

「それだけ、って……」

「仕事にするには曖昧すぎるんだよ。原因も経緯も、収束の理由もわからない。書類の書きようがない」


 のどかはモニターに目を向けた。画面には未送信のレポートが一件だけ残っている。タイトル欄には「観測不能事象:ワールドイズマイン」と記載されていた。本文は、ほとんど空白だった。


「……なんか、釈然としません」

「しないだろうな。俺もだ」


 課長が胸ポケットをまさぐった。いつもの癖だった。何も取り出さずに、手を下ろす。


「……まぁ、地球があるならそれでいいさ」

「雑じゃないですか」

「仕事だからな」


 のどかは少しだけ笑った。この一年で何度聞いたかわからないやりとりだ。でも、不思議と飽きない。飽きないのは、課長の声が毎回少しだけ違うからだと、最近気づいた。同じ言葉でも、朝と夜で温度が違う。今日の「仕事だからな」は、少しだけ温かかった。


 エミリが端末から顔を上げた。


「課長、各国から事後報告の要請が来ていますが、どう対応しますか」

「何も起きてないんだから、何も報告できない。そう返しとけ」

「了解ですわ。……怒られませんかね」

「怒られるだろうな。いつものことだ」


 エミリは少し呆れたような、少し安心したような顔で端末に向き直った。いつも通りだった。何が起きたのかわからなくても、仕事は続く。書類は溜まるし、電話は鳴るし、各国は文句を言ってくる。世界が一度消えたくらいでは、事務仕事はなくならない。


 のどかはモニターに向き直って、未送信のレポートを開いた。本文の空白を見つめる。何を書けばいいのか、まだわからない。わからないけれど、とりあえずカーソルを置いた。


 ふと、記憶の端に何かが引っかかった。


 消える直前に、何かを見た気がする。モニターに、何かが映っていた。タグのような、記号のような。けれど思い出そうとすると、指の隙間から砂がこぼれるように消えていく。形はわかるのに、名前が出てこない。


 のどかは首を振った。思い出せないものは、思い出せない。それよりも、目の前の仕事がある。


「……あ、そうだ。課長」

「なんだ」

「雪ノ下さんの店、また出前始めたらしいですよ」

「あー、あの冷やし中華の」

「はい。冬なのに、結構売れてるみたいです。かき氷もやってるって。手作りの」

「……人間ってのは懲りないな。冬にかき氷って」

「懲りないから、生きていけるんですよ」


 課長の手が止まった。マグカップを口元に持っていく途中で、ほんの一拍だけ。


「……言うようになったな」


 課長が笑った。笑った、と言っていいのかわからないくらい小さな変化だった。口元がわずかに緩んで、目尻にほんのわずかにシワが寄る。それだけ。けれど、のどかはそれを見逃さなかった。


 窓の外で、粉雪が少しだけ強くなった。屋上のアンテナに雪が積もり始めている。暖房は相変わらず頼りないが、コーヒーは温かい。


 のどかはモニターに向き直って、レポートの本文に一行だけ打ち込んだ。


《状況:解決たぶん


 それから少し考えて、もう一行。


《備考:原因・経緯・収束理由、すべて不明。ただし、地球は現存。》


 のどかは小さく息をついた。こんな報告書が通るわけがない。通るわけがないけれど、事実だから仕方がない。


 デスクの端に付箋を一枚貼った。


「今度、みんなでかき氷行きません?」


 誰に向けたわけでもない、小さな文字。のどかは自分でもよくわからないまま、それを書いていた。かき氷なんて、冬に食べるものではない。でも、なぜだろう。今、すごくかき氷が食べたかった。理由はわからない。ただ——冷たくて、甘いものが、食べたかった。


 モニターの隅で、赤ちゃん怪獣が寝返りを打った。毛布からはみ出した一匹を、飼育員がそっと戻している。


 平和な朝だった。



 ——業務日誌(定型)——


 案件名:ワールドイズマイン

 発生場所:全世界(中心座標:日本・関東圏)

 災害区分:世界災害

 被害状況:全世界規模の現実改変および一時的消失。人的被害なし(たぶん)

 対応:各国代表による接触作戦(全員観測ロスト)。日本代表・夜勤担当出撃(観測ロスト)。その後、原因不明の自然収束。

 備考:収束理由不明。報告書に書ける内容がほぼない。夜勤手当申請一件。


  ※観測できない災害は人災扱いとして処理済み。

最終回までお読みいただきありがとうございました。

初めての長編ということで、非常に拙い作品だとは思いますが、作者としては楽しんで書けました。

構想としてはもう2章ほど考えていたのですが、これで一区切りとさせていただきます。

また機会があれば別の作品を読んでいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ