第8話⑤「世界はそれを愛と呼ぶそうです」
◆
——ざく。
足音。
白の中に、かすかな音が落ちた。
——ざく、ざく。
ゆっくりとした、何の緊張感もない歩き方。世界が終わった後に聞こえる音としては、あまりにも普通の足音だった。
「……?」
マインは顔を上げた。白の靄の向こうに、人影がある。ゆらゆらと揺れながら近づいてくる。
一人の青年だった。
パーカーにジーンズという、どこにでもいるような格好。その片手にマスコットの頭をぶら下げている。さっき砕けたはずのマスコットの、あの丸い頭。ヒビだらけで、中の光はもう消えている。それを片手にぶら下げたまま、もう片方の手でぼりぼりと頭を掻いている。
「あのー……もう閉園、ですかね」
「……え?」
「いや、その……バイト終わったのに出口がなくて。もしかして、また迷子ですかね俺」
どうでもいい声だった。
世界が消えた後の、何もない白の中で、その声だけがやけにはっきり聞こえた。迷子。バイト。出口。世界の終わりとは何の関係もない単語が、雪の上に足跡をつけるようにぽつぽつと落ちていく。
「……閉園ですよ」
「マジか……またタイムカード押し忘れた……」
マインは、この青年を理解できなかった。
世界が消えている。音も光も人も消えている。自分がそうした。なのにこの青年は、タイムカードの心配をしている。怖がっていない。驚いてもいない。ただ、困っている。迷子だから。
「あなた、誰?」
「えっと……バイト。たぶん」
「……たぶん?」
「いや、あんまり自信ないんです。バイト先でもよく『お前、何考えてんだ』って言われて」
青年は困ったような顔で笑った。困っているのに笑える人間を、マインは初めて見た気がした。さっきまでの人たちは、みんな笑顔の裏に何かを持っていた。自信か、目的か、使命か。この青年の笑顔の裏には、何もなかった。本当に、何も。
「幼なじみにも振られるし、五つ子には勘違いされるし、レンタル彼女には説教されるし……」
「…………」
「あ、でも誤解しないでくださいね。浮気とかじゃないです。ただ、人の気持ちがよくわかんないっていうか……」
マインは静かに首をかしげた。
この青年は、自分の話をしている。求められてもいないのに、聞かれてもいないのに、ただ自分のどうしようもない話を、雪の中にぽとぽと落としている。世界が終わっていることに気づいていないのか、気づいていて気にしていないのか。たぶん、前者だ。
「……あなた、最低な男じゃないですね」
「え?」
「本当に人を傷つけたくない人は、たぶん、うまく笑えない人ですよ」
青年は少し困ったように笑った。さっきと同じ笑い方だった。困っているのに笑う。笑っているのに困っている。どっちが本当かわからない。たぶん、どっちも本当だった。
「いや、笑わないと怒られるんで。バイト先で」
「ふふ、そうですか」
マインは笑っていた。自分が笑っていることに、少し遅れて気づいた。いつぶりだろう。さっきのお姉さんと話しているときは、笑えなかった。マスコットの前でも、各国の代表の前でも。なのに、この青年の前では——。
風が吹いた。
風のなかった世界に、小さな風が吹いた。二人の間を抜けて、白い何かを巻き上げていく。雪ではない。世界の残骸が、粉になって舞っているのだ。けれど、風の感触は本物だった。冷たくて、乾いていて、冬の匂いがした。
少し沈黙があった。青年はマスコットの頭をぶらぶらと揺らしながら、白い空をぼんやりと見上げていた。
「……出口、どこですかね」
「ないですよ。出口なんて」
「えー……困ったな。バイト代もらえないじゃん」
「…………」
「あ、でも帰れたらコンビニ寄ろうかな。かき氷でも買って」
「……かき氷? 今、冬ですよ?」
「うん。でも、なんか食べたくて。冷たくて甘いやつ」
マインは青年の横顔を見た。何も考えていない顔だった。本当に、何も。かき氷が食べたいから食べる。冬だろうが関係ない。それだけの話。
マインの目に、何かが滲んだ。涙ではなかった。涙を忘れた目に、ただ光が戻ったのだ。白一色だった視界に、ほんのわずかに色が差す。青年のパーカーの紺色。マスコットの頭の、ヒビだらけの赤。自分の指先の、冷えて白くなった肌色。
マインが一歩、踏み出した。白い地面に足跡がついた。もう一歩。青年の足跡の隣に、自分の足跡が並んだ。
二人の足跡が、白の中に続いていく。
風が吹いた。今度は、もう少しだけ強く。白い粉が舞い上がって、その向こうに——ほんのわずかに、空の色が見えた。
世界が、静かに、ゆっくりと、戻りはじめた。
◆
翌朝、世界は何事もなかったように動いていた。
電車は走り、信号は変わり、コンビニの自動ドアは客を迎えている。昨日まで世界が消えかけていたことを知る人間は、防衛軍の関係者を除けばほとんどいない。知っていたところで、何が起きたのかを説明できる人間は、もっといない。
のどかは自分のデスクに座っていた。モニターは正常に稼働している。各国の監視網も復旧済み。小型怪獣保護施設のライブカメラには、赤ちゃん怪獣が三匹、いつも通り毛布の上で団子になって寝ていた。一匹だけ寝相が悪いのも、いつも通りだった。
隣では、エミリが何事もなかったように端末を叩いている。ヨルさんは夜勤明けで帰ったらしく、デスクの上に空の紙カップだけが残っていた。
何も覚えていなかった。
のどかも、エミリも、ヨルさんも。消えていた間の記憶は、誰にもない。気がついたら朝で、気がついたらデスクに座っていた。モニターには「観測不能事象:収束」の文字だけが表示されていて、それ以上の情報はどこにもなかった。
「……課長」
「ん」
課長はマグカップを持って、窓の外を見ていた。冬の曇り空。粉雪が少しだけ舞っている。いつもと変わらない、二月の朝だった。
「結局、あの件はどうなったんですか」
「どうもこうも。報告不能だよ」
課長はコーヒーを一口飲んだ。
「世界が消えて、戻ってきた。それだけだ」
「それだけ、って……」
「仕事にするには曖昧すぎるんだよ。原因も経緯も、収束の理由もわからない。書類の書きようがない」
のどかはモニターに目を向けた。画面には未送信のレポートが一件だけ残っている。タイトル欄には「観測不能事象:ワールドイズマイン」と記載されていた。本文は、ほとんど空白だった。
「……なんか、釈然としません」
「しないだろうな。俺もだ」
課長が胸ポケットをまさぐった。いつもの癖だった。何も取り出さずに、手を下ろす。
「……まぁ、地球があるならそれでいいさ」
「雑じゃないですか」
「仕事だからな」
のどかは少しだけ笑った。この一年で何度聞いたかわからないやりとりだ。でも、不思議と飽きない。飽きないのは、課長の声が毎回少しだけ違うからだと、最近気づいた。同じ言葉でも、朝と夜で温度が違う。今日の「仕事だからな」は、少しだけ温かかった。
エミリが端末から顔を上げた。
「課長、各国から事後報告の要請が来ていますが、どう対応しますか」
「何も起きてないんだから、何も報告できない。そう返しとけ」
「了解ですわ。……怒られませんかね」
「怒られるだろうな。いつものことだ」
エミリは少し呆れたような、少し安心したような顔で端末に向き直った。いつも通りだった。何が起きたのかわからなくても、仕事は続く。書類は溜まるし、電話は鳴るし、各国は文句を言ってくる。世界が一度消えたくらいでは、事務仕事はなくならない。
のどかはモニターに向き直って、未送信のレポートを開いた。本文の空白を見つめる。何を書けばいいのか、まだわからない。わからないけれど、とりあえずカーソルを置いた。
ふと、記憶の端に何かが引っかかった。
消える直前に、何かを見た気がする。モニターに、何かが映っていた。タグのような、記号のような。けれど思い出そうとすると、指の隙間から砂がこぼれるように消えていく。形はわかるのに、名前が出てこない。
のどかは首を振った。思い出せないものは、思い出せない。それよりも、目の前の仕事がある。
「……あ、そうだ。課長」
「なんだ」
「雪ノ下さんの店、また出前始めたらしいですよ」
「あー、あの冷やし中華の」
「はい。冬なのに、結構売れてるみたいです。かき氷もやってるって。手作りの」
「……人間ってのは懲りないな。冬にかき氷って」
「懲りないから、生きていけるんですよ」
課長の手が止まった。マグカップを口元に持っていく途中で、ほんの一拍だけ。
「……言うようになったな」
課長が笑った。笑った、と言っていいのかわからないくらい小さな変化だった。口元がわずかに緩んで、目尻にほんのわずかにシワが寄る。それだけ。けれど、のどかはそれを見逃さなかった。
窓の外で、粉雪が少しだけ強くなった。屋上のアンテナに雪が積もり始めている。暖房は相変わらず頼りないが、コーヒーは温かい。
のどかはモニターに向き直って、レポートの本文に一行だけ打ち込んだ。
《状況:解決》
それから少し考えて、もう一行。
《備考:原因・経緯・収束理由、すべて不明。ただし、地球は現存。》
のどかは小さく息をついた。こんな報告書が通るわけがない。通るわけがないけれど、事実だから仕方がない。
デスクの端に付箋を一枚貼った。
「今度、みんなでかき氷行きません?」
誰に向けたわけでもない、小さな文字。のどかは自分でもよくわからないまま、それを書いていた。かき氷なんて、冬に食べるものではない。でも、なぜだろう。今、すごくかき氷が食べたかった。理由はわからない。ただ——冷たくて、甘いものが、食べたかった。
モニターの隅で、赤ちゃん怪獣が寝返りを打った。毛布からはみ出した一匹を、飼育員がそっと戻している。
平和な朝だった。
——業務日誌(定型)——
案件名:ワールドイズマイン
発生場所:全世界(中心座標:日本・関東圏)
災害区分:世界災害
被害状況:全世界規模の現実改変および一時的消失。人的被害なし(たぶん)
対応:各国代表による接触作戦(全員観測ロスト)。日本代表・夜勤担当出撃(観測ロスト)。その後、原因不明の自然収束。
備考:収束理由不明。報告書に書ける内容がほぼない。夜勤手当申請一件。
※観測できない災害は人災扱いとして処理済み。
最終回までお読みいただきありがとうございました。
初めての長編ということで、非常に拙い作品だとは思いますが、作者としては楽しんで書けました。
構想としてはもう2章ほど考えていたのですが、これで一区切りとさせていただきます。
また機会があれば別の作品を読んでいただけると嬉しいです。




