第8話③「世界はそれを愛と呼ぶそうです」
◆
「——ヨルさんっ!」
暗転したモニターに向かってのどかが叫んだ。
この一年で、声を荒げたことは数えるほどしかない。これがそのひとつだった。
エミリが端末を叩く。指先が震えている。
「生体反応——ロスト。転移座標——消失。観測ロストですわ……」
課が、静まり返った。
モニターの画面には「日本代表:観測ロスト」の文字だけが浮かんでいた。各国の代表と同じ表記。同じフォント。同じ冷たさ。けれど、のどかにはその五文字がまったく別の重さで胸に落ちた。
「……課長」
「ああ」
「ヨルさん、は——」
「聞こえてた。最後まで」
課長は椅子の背にもたれた。天井を見上げるでもなく、モニターを見るでもなく、どこか中途半端な場所に視線を置いていた。胸ポケットに手がいって、すぐに下ろした。
「——健闘だ。あの状態で会話まで持ち込んだのは、あいつだけだ」
「でも——」
「ああ。届かなかった」
課長の声は平坦だった。いつも通りの、感情を読ませない声だった。けれど、マグカップに手を伸ばさなかった。
エミリが端末をデスクに置いた。置いた、というよりは手から離れた、に近かった。
「……夜勤手当、つけておきますわ」
声が小さく震えていた。それ以上は、誰も何も言わなかった。
モニターの改変指数は、なおも上昇を続けている。グラフの線はもう深紅を通り越して、ほとんど黒に近い色になっていた。画面の隅のライブカメラでは、赤ちゃん怪獣が毛布の中で丸くなったまま、じっと動かなくなっていた。
◆
モニターの数値がもう意味をなさなくなっていた。
改変指数のグラフは画面の上端を突き破り、数字が桁を超えて文字化けしている。各国の通信は一つ、また一つと途絶え、画面に並んでいた各支部のステータスが端から灰色に変わっていく。
「欧州方面、全監視網ロスト」
エミリの声が、報告というよりは記録だった。記録する意味があるのかもわからないまま、指は動いていた。
「北米支部、応答なし。中東方面——同じく。東南アジア、ロスト」
——ぴし。
音が近い。庁舎の中にまで入り込んでいる。
のどかは窓の外を見た。都心のビル群が、いつもと同じように並んでいる。けれど、色が薄い。空が白く、影が淡く、すべてが水彩画の上に水を垂らしたように滲んでいる。
「……音が」
のどかは呟いた。窓の外の道路を車が走っているのが見える。見えるのに、エンジン音がしない。交差点の信号が変わっているのに、歩行者の足音がしない。世界が、ミュートされていく。
「都心を中心に、消失範囲が拡大しています。音声情報から順に——」
エミリの声が途切れた。途切れたのではなく、声が一瞬だけ「薄く」なった。のどかは振り返る。エミリはそこにいた。いたけれど、輪郭がほんのわずかに頼りなく見えた。
——ぴし、ぴし。
「防壁の状態は」
課長の声が飛ぶ。
「第一から第三まで健在。第四防壁に微細なひび割れを確認——いえ、第三にも」
「……何重張ってると思ってんだ、ったく」
課長は立ち上がった。この一年で、課長が椅子から立つのを見た回数は片手で足りる。のどかはそれだけで、状況の異常さを理解した。
「課長、これ——」
「世界災害の範疇を超え始めてる。だが、認定を上げたところで対応策がない」
窓の外で、ビルの看板が消えた。文字が薄れたのではない。看板ごと、最初からそこになかったかのように消失した。その次に街路樹が消えた。一本ずつではなく、のどかが目を逸らして戻した瞬間に、もうなかった。
「……人が」
エミリが窓に目を向けた。
歩道にいたはずの人影が、ガラスの粉のように散っていく。悲鳴はない。音がもうないのだ。ただ静かに、一人、また一人と、風景の中から抜け落ちていく。
——ぱきん。
今度は庁舎の中で鳴った。
振り返ると、奥の壁にかかっていた時計が消えていた。壁に跡すら残っていない。のどかの隣のデスクに置かれていたファイルが、ぱらぱらとページを散らしながら白くなり、紙ごと消えた。
「第二防壁、突破されましたわ——」
エミリの声が遠くなった。遠くなった、というよりは薄くなった。のどかがエミリを見ると、彼女の輪郭が揺れていた。水面に映った影のように、不確かに。
「エミリ——」
「のどかさん、記録は——記録だけは——」
エミリの声が途切れた。唇は動いていたが、音が届かなかった。マインの世界が、ここにも届いている。ヨルさんと同じだった。声が消え、輪郭が薄れ、ガラスの粉になって——エミリの姿が、デスクの向こうに溶けていった。端末だけが、椅子の上に残された。
「研修生——っ」
のどかの声が、自分でも驚くほど大きく出た。けれど、返事はなかった。
課長がのどかの肩に手を置いた。振り返ると、課長の顔はいつも通りだった。感情を読ませない、平坦な、いつもの顔。けれど、肩に置かれた手の重さだけが、ほんの少し普段より強かった。
「……新人」
「課長、これ——」
「見届けろ。最後まで。それが仕事だ」
課長の輪郭が揺れ始めていた。足元から、ゆっくりと。のどかはその手を掴もうとした。指が触れた瞬間に、課長の手が砂のように崩れた。
「——課長っ」
「お前は最後まで見てろ」
声はまだ聞こえた。薄く、遠く、けれど確かに。
「見届けるのが、お前の仕事だろ」
課長が消えた。マグカップだけが、デスクの上に残っていた。冷めたコーヒーが、まだ少しだけ揺れていた。
のどかは一人だった。
庁舎の中に、もう誰もいなかった。窓の外には白い空と、輪郭を失った街のシルエットだけが残っている。音はない。空調も止まっている。自分の呼吸の音すら、遠い。
——ぴし。
足元のタイルにヒビが入った。のどかは自分の手を見た。指先が、うっすらと透け始めていた。
怖かった。怖くないと言えば嘘になる。けれど、のどかは椅子に座り直した。モニターに向き直った。画面はほとんどノイズに覆われていた。かろうじて残っている観測データが、意味のない数字の羅列を吐き出し続けている。
——その時、画面の隅に何かが走った。
ノイズの中に、一瞬だけ信号が浮かんだ。微弱で、不安定で、すぐに消えかけて——けれど確かに、何かの反応だった。改変空間の内側から、何かが観測されている。
のどかの指が動いた。消えかけの指で、キーボードを叩く。拡大。補正。フィルター。この一年で身についた手順を、考えるより先に指が踏んでいた。
画面に、タグが浮かんだ。
自動識別。出所不明。対象の改変空間内で検出された、正体不明の存在。
のどかは目を凝らした。自分の輪郭がもう半分ほど透けている。モニターの光が、自分の体を透過して壁に映っている。それでも、目だけは画面に向けていた。
「……なに、このタグ」
それが、春森のどかの最後の仕事だった。
——ぱりん。
世界が閉じた。
《自動識別タグ:鈍感野郎》




