表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/43

第8話③「世界はそれを愛と呼ぶそうです」

 ◆


「——ヨルさんっ!」


 暗転したモニターに向かってのどかが叫んだ。

 この一年で、声を荒げたことは数えるほどしかない。これがそのひとつだった。


 エミリが端末を叩く。指先が震えている。


「生体反応——ロスト。転移座標——消失。観測ロストですわ……」


 課が、静まり返った。


 モニターの画面には「日本代表:観測ロスト」の文字だけが浮かんでいた。各国の代表と同じ表記。同じフォント。同じ冷たさ。けれど、のどかにはその五文字がまったく別の重さで胸に落ちた。


「……課長」

「ああ」

「ヨルさん、は——」

「聞こえてた。最後まで」


 課長は椅子の背にもたれた。天井を見上げるでもなく、モニターを見るでもなく、どこか中途半端な場所に視線を置いていた。胸ポケットに手がいって、すぐに下ろした。


「——健闘だ。あの状態で会話まで持ち込んだのは、あいつだけだ」

「でも——」

「ああ。届かなかった」


 課長の声は平坦だった。いつも通りの、感情を読ませない声だった。けれど、マグカップに手を伸ばさなかった。


 エミリが端末をデスクに置いた。置いた、というよりは手から離れた、に近かった。


「……夜勤手当、つけておきますわ」


 声が小さく震えていた。それ以上は、誰も何も言わなかった。


 モニターの改変指数は、なおも上昇を続けている。グラフの線はもう深紅を通り越して、ほとんど黒に近い色になっていた。画面の隅のライブカメラでは、赤ちゃん怪獣が毛布の中で丸くなったまま、じっと動かなくなっていた。


 ◆


 モニターの数値がもう意味をなさなくなっていた。


 改変指数のグラフは画面の上端を突き破り、数字が桁を超えて文字化けしている。各国の通信は一つ、また一つと途絶え、画面に並んでいた各支部のステータスが端から灰色に変わっていく。


「欧州方面、全監視網ロスト」


 エミリの声が、報告というよりは記録だった。記録する意味があるのかもわからないまま、指は動いていた。


「北米支部、応答なし。中東方面——同じく。東南アジア、ロスト」


 ——ぴし。


 音が近い。庁舎の中にまで入り込んでいる。


 のどかは窓の外を見た。都心のビル群が、いつもと同じように並んでいる。けれど、色が薄い。空が白く、影が淡く、すべてが水彩画の上に水を垂らしたように滲んでいる。


「……音が」


 のどかは呟いた。窓の外の道路を車が走っているのが見える。見えるのに、エンジン音がしない。交差点の信号が変わっているのに、歩行者の足音がしない。世界が、ミュートされていく。


「都心を中心に、消失範囲が拡大しています。音声情報から順に——」


 エミリの声が途切れた。途切れたのではなく、声が一瞬だけ「薄く」なった。のどかは振り返る。エミリはそこにいた。いたけれど、輪郭がほんのわずかに頼りなく見えた。


 ——ぴし、ぴし。


「防壁の状態は」


 課長の声が飛ぶ。


「第一から第三まで健在。第四防壁に微細なひび割れを確認——いえ、第三にも」

「……何重張ってると思ってんだ、ったく」


 課長は立ち上がった。この一年で、課長が椅子から立つのを見た回数は片手で足りる。のどかはそれだけで、状況の異常さを理解した。


「課長、これ——」

「世界災害の範疇を超え始めてる。だが、認定を上げたところで対応策がない」


 窓の外で、ビルの看板が消えた。文字が薄れたのではない。看板ごと、最初からそこになかったかのように消失した。その次に街路樹が消えた。一本ずつではなく、のどかが目を逸らして戻した瞬間に、もうなかった。


「……人が」


 エミリが窓に目を向けた。


 歩道にいたはずの人影が、ガラスの粉のように散っていく。悲鳴はない。音がもうないのだ。ただ静かに、一人、また一人と、風景の中から抜け落ちていく。


 ——ぱきん。


 今度は庁舎の中で鳴った。


 振り返ると、奥の壁にかかっていた時計が消えていた。壁に跡すら残っていない。のどかの隣のデスクに置かれていたファイルが、ぱらぱらとページを散らしながら白くなり、紙ごと消えた。


「第二防壁、突破されましたわ——」


 エミリの声が遠くなった。遠くなった、というよりは薄くなった。のどかがエミリを見ると、彼女の輪郭が揺れていた。水面に映った影のように、不確かに。


「エミリ——」

「のどかさん、記録は——記録だけは——」


 エミリの声が途切れた。唇は動いていたが、音が届かなかった。マインの世界が、ここにも届いている。ヨルさんと同じだった。声が消え、輪郭が薄れ、ガラスの粉になって——エミリの姿が、デスクの向こうに溶けていった。端末だけが、椅子の上に残された。


「研修生——っ」


 のどかの声が、自分でも驚くほど大きく出た。けれど、返事はなかった。


 課長がのどかの肩に手を置いた。振り返ると、課長の顔はいつも通りだった。感情を読ませない、平坦な、いつもの顔。けれど、肩に置かれた手の重さだけが、ほんの少し普段より強かった。


「……新人」

「課長、これ——」

「見届けろ。最後まで。それが仕事だ」


 課長の輪郭が揺れ始めていた。足元から、ゆっくりと。のどかはその手を掴もうとした。指が触れた瞬間に、課長の手が砂のように崩れた。


「——課長っ」

「お前は最後まで見てろ」


 声はまだ聞こえた。薄く、遠く、けれど確かに。


「見届けるのが、お前の仕事だろ」


 課長が消えた。マグカップだけが、デスクの上に残っていた。冷めたコーヒーが、まだ少しだけ揺れていた。


 のどかは一人だった。


 庁舎の中に、もう誰もいなかった。窓の外には白い空と、輪郭を失った街のシルエットだけが残っている。音はない。空調も止まっている。自分の呼吸の音すら、遠い。


 ——ぴし。


 足元のタイルにヒビが入った。のどかは自分の手を見た。指先が、うっすらと透け始めていた。


 怖かった。怖くないと言えば嘘になる。けれど、のどかは椅子に座り直した。モニターに向き直った。画面はほとんどノイズに覆われていた。かろうじて残っている観測データが、意味のない数字の羅列を吐き出し続けている。


 ——その時、画面の隅に何かが走った。


 ノイズの中に、一瞬だけ信号が浮かんだ。微弱で、不安定で、すぐに消えかけて——けれど確かに、何かの反応だった。改変空間の内側から、何かが観測されている。


 のどかの指が動いた。消えかけの指で、キーボードを叩く。拡大。補正。フィルター。この一年で身についた手順を、考えるより先に指が踏んでいた。


 画面に、タグが浮かんだ。


 自動識別。出所不明。対象の改変空間内で検出された、正体不明の存在。


 のどかは目を凝らした。自分の輪郭がもう半分ほど透けている。モニターの光が、自分の体を透過して壁に映っている。それでも、目だけは画面に向けていた。


「……なに、このタグ」


 それが、春森のどかの最後の仕事だった。

 ——ぱりん。

 世界が閉じた。


 《自動識別タグ:鈍感野郎》

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ