第8話②「世界はそれを愛と呼ぶそうです」
◆
最初に投入されたのは、アメリカ代表だった。
モニターに映し出された男は、のどかの想像を三周ほど超えていた。身長百九十センチ超。日焼けした肌に、完璧な歯並びの笑顔。軍服の上からでもわかる筋肉の圧。
肩書きは「ジョン=スマイルズ少佐、合衆国特殊感情対策部隊所属」。
「……本当にいるんですね、こういう人」
「アメリカはいつも初手が重いのよ」
ヨルさんが呟く。エミリは無言でモニターを見つめていた。その目が、若干キラキラしている気がするのは気のせいだろうか。
スマイルズ少佐が改変空間に突入する。モニター越しでも空気が変わるのがわかった。映像の色彩がゆっくりと褪せていく。鮮やかだった空が白っぽくなり、背景の輪郭がぼやけ始める。少佐の周囲から、音が薄くなっていく。
その中で、少佐は胸に手を当てた。
「——君の瞳に、自由を見た! リバティ!!」
声が、途中で聞こえなくなった。
映像が一瞬乱れ、ノイズが走り——スマイルズ少佐の輪郭が薄れていく。消えていく、というよりは最初からいなかったかのように、画面の中から存在が抜け落ちていった。笑顔も、筋肉も、リバティも。何も残らなかった。
「……アメリカ代表、観測ロストですわ」
「早いな」
「二十三秒ですわ」
「新記録だな」
課長は何の感慨もない声で言った。のどかはモニターに「合衆国代表:観測ロスト」の文字が表示されるのを、ぼんやりと見ていた。消えた、のではない。「観測できなくなった」と書かれている。その言い方が、かえって怖かった。
次に映ったのは、フランス代表だった。
ルイ=デラクロワ伯爵。貴族の末裔らしく、白いスーツに赤い薔薇を一輪持っている。入場の時点ですでにポエムを朗読していた。
「芸術こそ愛——愛こそ芸術——ゆえに、君は世界でもっとも美しい作品だ——」
「……何言ってるのかわかります?」
「わからないわ。たぶん本人もわかってない」
ヨルさんが腕を組む。エミリは真面目な顔で端末に何かを記録していた。
「研修生、何書いてんの」
「各国代表の観測記録ですわ。業務報告に必要ですので」
デラクロワ伯爵のポエムは七分続いた。
七分間、誰にも遮られず、誰にも聞かれず、薔薇の花弁を散らしながら朗読を続けた。空間の色彩はますます薄れていく。伯爵の声だけがモニターに響いていたが、やがてその声にもノイズが混じり始めた。言葉の端が欠け、韻が崩れ、ポエムが別の何かに変わっていく。
最後の一節を読み上げたとき、伯爵の目から光が消えた。自分の言葉に酔ったのか、それともマインの感情に呑まれたのか。たぶん、その両方だった。薔薇の花弁が白くなり、伯爵の輪郭が空気に溶けるように薄れていった。
「……フランス代表、観測ロストですわ」
「原因は」
「自己陶酔のち、対象の感情場に取り込まれたものと推定されますわ」
「人類の叡智、どこ行ったんだ」
課長がマグカップを傾ける。中身はもう空だった。
その後、イタリア代表のマルコ=ロッシが「ピザ食べる?」と微笑んだ瞬間に表情ごと凍りつき、声も姿もゆっくりと消えていった。北欧連合の氷の王子エリックは「寒さも愛の一部だ」と囁きながら、自分の吐く息が白くなり、白くなり、やがて全身が霜に覆われるようにして見えなくなった。寒さを愛した男が、寒さに還っていくような消え方だった。エミリは全員の観測時間と消失パターンを几帳面に記録し、のどかは途中からモニターを見る目が完全に据わっていた。
「……課長、世界の防衛予算って、これに使われてるんですよね」
「考えるなって言っただろ」
「考えないと正気が保てないんですけど」
「それ、逆だ」
モニターに残った文字列は、全代表のステータスが「観測ロスト」に変わったことを示していた。画面の隅では、改変指数を示すグラフが、なだらかに、しかし確実に上昇を続けている。
——ぴし、ぴし。
音が、重なり始めていた。
◆
全代表が観測ロストした画面を、のどかはただ見つめていた。
モニターの数値は止まらない。改変指数が、また一段上がる。グラフの線が赤から深紅に変わり、画面の端に新しいバナーが点灯した。
《災害レベル再判定——世界災害:確定》
《現実改変深度:上昇継続中》
《対象空間への接触成功率:推定〇・三パーセント以下》
「……もう、近づけないってことですか」
のどかの声が小さく落ちた。
「各国の代表が突入するたびに、対象の不安定化が加速しています。現在の改変空間は事実上の拒絶領域ですわ。生半可な手段では、会うことすらできません」
エミリが淡々と読み上げる。その声にいつもの張りがなかった。
「世界災害の中心に、素手で突っ込むようなもんだ」
課長がマグカップを見下ろす。中身はとっくに冷めていた。
「各国も手詰まりだな。会えなきゃ、何も始まらない」
モニターの向こうでは、各国の通信が混線していた。怒号とも悲鳴ともつかない声が、翻訳フィルター越しにぶつぶつと流れてくる。のどかはそれを聞きながら、自分の手がデスクの縁を握っていることに気づいた。握っても、何もできない。モニターの前に座っていることしか。
——はぁ。
深い、深い溜め息が聞こえた。
のどかが振り返ると、ヨルさんが椅子からゆっくり立ち上がっていた。紙カップはデスクの上に置かれている。髪を片手で軽くかき上げて、もう片方の手で袖をまくる。その仕草に、いつもの気だるさがなかった。
「ヨルさん? どうしたんですか」
ヨルさんがのどかの方を向いた。
「——ちょっと、泣いてる子をあやしに行ってくるわ」
微笑んでいた。
のどかは息を呑んだ。見たことのない顔だった。気だるげでもなく、皮肉でもなく、ただまっすぐに柔らかい。目元が細くなって、口角がほんの少しだけ上がって——それだけなのに、視界の全部がヨルさんに持っていかれた。
隣で、エミリの手が止まっていた。端末を持ったまま、頬がわずかに赤くなっている。
「あ——」
のどかが何かを言いかけた瞬間、空気が揺れた。
ヨルさんの足元に、黒い靄のようなものが渦を巻く。
転移能力。世界最高峰の、空間を渡る力。のどかは一度だけ、訓練で見たことがある。けれどあのときとは規模が違った。ヨルさんの周囲の空間そのものが軋んでいる。
「ヨルさん、それって——」
声は届かなかった。
ヨルさんの姿が揺れ、滲み、そして——消えた。
デスクの上に、紙カップだけが残っている。中身はまだ温かかった。
「……行っちゃいましたわね」
エミリが呟いた。
「課長、ヨルさんは——」
「行けるさ。あいつなら」
課長の声は静かだった。静かだったが、断言だった。
「世界災害の中心だろうが何だろうが、あいつの転移は空間を選ばない。問題は——」
「着いた後、ですか」
「ああ」
モニターに、ノイズが走った。ヨルさんの生体反応を示すドットが、世界地図の上を一瞬で横切り——改変空間の中心に、点灯した。
◆
風が頬を叩いた。
ヨルさんは思わず髪を手で押さえた。転移直後の感覚が体に馴染むまで、数秒。片手で乱れた髪を耳にかける。左耳に連なるピアスが、鈍い銀色に光った。
目の前に広がっていたのは、普通の街並みだった。
車道があり、歩道がある。信号機が立ち、街路樹が冬枯れの枝を伸ばしている。コンビニの看板が見え、その隣にはクリーニング店。ごく普通の、どこにでもある日本の街。
けれど、何かが足りない。
ヨルさんは数歩、歩いた。靴音がアスファルトに落ちる。——落ちる、はずだった。
音がしない。
自分の足音が聞こえない。風が髪を揺らしているのに、風の音がしない。向こうに見える街路樹の枝が揺れているのに、葉擦れの音がしない。車道に車はなく、歩道に人影はあるのに——いや、あったはずなのに。目を凝らすと、人影の輪郭がガラスのように透けていた。
——ぴし。
空気が軋む音。それだけが、やけにはっきりと聞こえた。
すると、雑踏が消えた。ついさっきまで遠くに見えていた人影が、砂が風に攫われるように薄れていく。話し声が消え、足音が消え、自動ドアの開閉音が消え、世界から音が一つずつ、丁寧に、抜き取られていく。
最後に残ったのは、あの軋む音だけだった。
音のない街の真ん中に、一人の少女が立っていた。
ヨルさんは少女に向かって歩き始めた。靴音は聞こえない。それでも、一歩ずつ確かにアスファルトを踏んで、近づいていく。
マインは俯いていた。肩は震えていない。泣いてもいない。ただ、どこも見ていなかった。足元を見ているようでいて、何も見ていない目。ヨルさんはその目を知っていた。鏡の中で、ずっと昔に見たことがある。
ヨルさんはマインの前に立った。しゃがんで、目線を合わせる。
右手をゆっくり伸ばして、マインの頬に触れた。
冷たかった。冬の外気よりも冷たい。泣いた跡はなかった。けれどヨルさんの指先は、涙の通り道を確かめるようにそっと頬を撫でた。泣いていないことを、確認するように。あるいは——泣いてもいいのだと、伝えるように。
マインの目が、ゆっくりとヨルさんを捉えた。
「……だれ?」
「通りすがりのお姉さん」
「……ここ、誰も来られないはずなのに」
「ちょっと特技があってね」
ヨルさんは微笑んだまま、マインの頬から手を離さなかった。
「——彼氏にでも泣かされた?」
マインの唇がわずかに動いた。答える代わりに、小さく首を横に振る。
「泣いてない」
「そう。泣けないのね」
「……泣いたら、もっと壊れるから」
「何が」
「全部」
ヨルさんは手を離して、マインの隣にゆっくりと座った。冷たいアスファルトだった。スーツの裾が汚れるのを気にする様子はなかった。
「あたしもね、昔、似たようなことがあったのよ」
「……似たようなこと?」
「世界がどうでもよくなるくらい、自分のことが嫌いになった時期」
マインが少しだけ、ヨルさんの方を向いた。
「あたしは別の世界から来てるんだけどさ。向こうにいたときは——まあ、痛いことばっかり言ってたわけ。世界の真理がどうとか、闇の力がどうとか。今思えば恥ずかしすぎて燃やしたいんだけど」
「……燃やしたの?」
「供養した」
「供養?」
「そう。あれはあれで、あたしが必死に生きてた証拠だったから。恥ずかしいけど、嘘じゃなかった。だから捨てるんじゃなくて、供養したの」
マインの指先が、自分のスカートの裾を握った。
「……私は、供養できない」
「どうして」
「だって、まだ終わってないから。まだ、ここにいるから」
音のない風が二人の間を抜けた。ヨルさんの髪が揺れて、ピアスが微かに鳴る——いや、鳴らない。音のない世界では、光だけが揺れた。
「……あたしの後輩にね、」
ヨルさんは真っ直ぐ前を見たまま言った。
「真面目な子がいるの。すっごく真面目で、すっごく普通で、特別な力なんて何もない子」
「……」
「その子がさ、ちょっと前にこう言ったのよ。『ちゃんと働いて、ちゃんと暮らしたい。それだけでいい』って。平凡でもいいから、真面目にちゃんと生きたいんだって」
「……」
「あなたと、似てると思ったの」
マインが顔を上げた。
「——似てない」
声が、静かに落ちた。けれど今度は、その奥に何かが軋んでいた。
「ちゃんとなんて、思ってない」
「……」
「ちゃんと生きたいとか、ちゃんと暮らしたいとか。そんなこと、考えたこともない」
マインの指がスカートの裾を握りしめる。爪が白くなるほど、強く。
「私はただ——見てほしいだけ」
声が震えた。震えたのに、涙は出なかった。
「ただ消えたくないだけ。私はまだちゃんとここにいるよねって。それだけ確かめたいだけなのに」
「……」
「なのに、みんな消えちゃう」
マインの目が、ヨルさんを真っ直ぐに見た。
「私を見てほしいのに、みんながみんな、いなくなっちゃう。さっきの人たちも。その前の人たちも。みんな、来て、何か言って、消えていく」
声が、少しずつ大きくなっていた。叫んでいるのではない。ただ、抑えていたものが零れ始めていた。
「あなたたちとは違うの」
ヨルさんは黙って聞いていた。表情を変えずに。マインの目を見たまま。
「あなたは乗り越えられた人でしょう。その後輩も、ちゃんと生きたいって言える人でしょう。そうやって、ちゃんとお互いに見て、支え合って——」
マインの声が裏返りかけた。
「そんな、まっすぐな優しい目で見て——」
風のない世界で、何かが砕ける音がした。
「そんなの、違う。全然、違う」
マインの瞳が揺れた。怒りではなかった。悲しみですらなかった。もっと手前にある、剥き出しの、どうしようもないもの。
「私だって——私だって、そんな世界にいたかった」
声が、落ちた。
長い沈黙があった。音のない世界で、沈黙はどこまでも深かった。
マインがヨルさんの目を見た。まっすぐに、優しく、自分を見ている目を。さっき自分の頬に触れてくれた手を。泣いてもいいのだと伝えてくれた指先を。
「……そんなまっすぐな優しい目なんて」
声が、消えるように小さくなった。
「——消えちゃえ」
——ぱきん。
世界が砕けた。
ヨルさんの指先が透けていく。手首が、腕が、肩が。音もなく、静かに、ガラスの粉になるように輪郭が崩れていく。
ヨルさんはそれを見下ろした。自分の手が消えていくのを、不思議そうに、けれど怖がらずに。
それからもう一度、マインの顔を見た。
泣いていなかった。泣けない顔のまま、自分が何をしたのかもわからないような目で、ヨルさんを見ていた。
ヨルさんは——微笑んだ。
消えていく手を、もう一度マインの頬に伸ばした。指先はすでに半分透けていた。それでも、冷たい頬にそっと触れた。さっきと同じように。涙の跡を確かめるように、ゆっくりと撫でた。
唇が動いた。
何かを伝えるように、一言だけ、口を開いた。
けれど——音はなかった。
ヨルさんの声ではない。世界が、もう音を通さなかった。唇の形だけが動いて、言葉は空気に溶ける前に消えた。マインが作った沈黙が、ヨルさんの最後の一言を呑み込んだ。
マインは目を見開いていた。ヨルさんの口元を見つめていた。何を言ったのか、読み取ろうとしていた。けれど、わからなかった。
ヨルさんは小さく息をついた。
それから、仕方ないわね、とでも言いたげに、ほんの少しだけ眉を下げて、困ったように笑った。
その笑顔のまま——ヨルさんの輪郭が砕けた。
ガラスの粉のように、細かく、静かに、光を含んだ破片になって散っていった。風のない世界で、破片だけがゆっくりと舞い上がり、白い空に溶けていく。
マインの頬に、最後の温度が残っていた。
すぐに、それも消えた。




