第8話①「世界はそれを愛と呼ぶそうです」
その日、世界にヒビが入ったような音がした。
二月も半ばに入り、庁舎の暖房は相変わらず頼りない。
窓の外は鈍い曇天で、ときおり粉雪が舞う程度の、なんということもない冬の朝だった。春森のどかは自分のデスクでコーヒーを啜りながら、朝のモニターチェックを進めていた。
人災が二件。都市災害の予兆はなし。監視対象リストに更新はなく、小型怪獣保護施設のライブカメラには赤ちゃん怪獣が三匹、毛布の上で丸まって寝ている映像が映っている。一匹だけ寝相が悪くて毛布からはみ出しているが、飼育員がそっと戻してやっていた。
平和な朝だった。少なくとも、この時点では。
——ぴし。
一瞬だった。
ガラスが軋むような、空気そのものが裂けるような、ごく小さな音。耳で聞いたのか、肌で感じたのか、それすら判然としない。ただ、世界の奥のほうで何かが鳴った。
のどかの指がキーボードの上で止まる。
隣のデスクでは、エミリが資料を捲る手を止めていた。ペンを持ったまま、少しだけ首をかしげている。
「……今の、聞こえました?」
「……何かが、鳴りましたわね」
二人の視線が交差する。
庁舎の窓にヒビはない。モニターの数値にも異常は出ていない。空調のノイズと、遠くの部署から聞こえるキーボードの打鍵音。いつも通りの朝の音だけが、変わらずそこにあった。
「気のせい、ですかね」
「……かもしれませんわ」
エミリはそう言いながらも、手元の端末に視線を落とした。何かを確かめるように、指先が静かにキーボードを叩いている。モニタリングシステムの過去ログを遡っているらしい。
のどかも自分のモニターに目を戻す。災害指数は安定。各地の観測網にも異常値は上がっていない。数字だけを見れば、何も起きていない朝だ。
けれど——胸の奥に、小さな棘のような違和感が刺さったまま抜けない。この一年で身についた、理屈ではない感覚。怪獣でも怪人でもない、もっと漠然とした何かが空気の底に沈んでいるような気配。
五分後、その棘は正しかった。
モニターの右端に、赤いバナーが走る。
《緊急速報:欧州方面監視網より多重異常観測》
続けて二本目。
《北米支部・第三監視局より連動報告》
三本目。
《東南アジア方面監視網より同時刻の異常検知——コード未確定》
のどかの背筋が自然と伸びる。
「……課長」
声をかけると、課長はマグカップをデスクに置いた。置き方が、いつもより静かだった。
「見えてる」
「これ、規模が——」
「各国同時だ。自然現象じゃないなこれは」
課長の声はいつも通り平坦だった。抑揚のない、事務報告のような口調。けれど、コーヒーに手を伸ばさなかった。のどかにはそれだけで十分だった。一年前なら気づけなかった合図を、今は読み取れる。課長が飲み物を放置するときは、頭がすでに別のところで動いている。
「課長、現実改変型の疑いって出てますけど——」
「ああ。出てるな」
課長はモニターに目を向けたまま、少しだけ間を置いた。それから無意識に胸ポケットをまさぐり——何も取り出さずに、手を戻した。のどかはその仕草を何度も見たことがある。課長が考えごとをするときの癖だった。
エミリの端末が小さく鳴った。
「課長。北米支部から追加データが来ました。既知の要注意観測対象がリストに上がっています」
「名前は」
「コードネーム——『ワールドイズマイン』」
エミリが読み上げた瞬間、課長の指が止まった。
胸ポケットをまさぐる動きが、ほんの一拍だけ途切れる。のどかはそれを見逃さなかった。
「……数年前に関東圏で国家災害未遂を起こした個人です。当時は未成年で、事象は自然収束。以後、継続監視対象として——」
「知ってる」
課長の声が、エミリの報告を静かに遮った。
「……ご存じですの?」
「当時の担当だ。俺が現場にいた」
のどかとエミリが同時に課長を見る。課長はモニターから視線を外さないまま、また胸ポケットに手をやった。今度はタバコを一本だけ抜き出して、唇に近づけ——途中でやめて、デスクの上に置いた。
「あのときは半径三キロで収まった。未成年で、感情の振れ幅も限定的だった。時間が経てば落ち着くだろうって判断で、監視に切り替えた」
「……それが今回は、全世界同時」
「成長してんだよ、あの子も」
課長の声に感情はなかった。けれど、「あの子」という言い方に、のどかは少しだけ引っかかった。資料番号でもコードネームでもない、人間に向ける呼び方だった。
エミリが資料の続きを読み上げる。
「能力分類は現実改変。感情の波をトリガーに、周囲の現象そのものを書き換える体質。前回の観測データでは、改変の深度が通常の現実改変型を大きく上回っています。量的なスケールは世界災害級ですが——」
「質が違う」
課長がエミリの言葉を引き取った。
「現実改変ってのは、普通は見え方を変える。景色が歪むとか、物理法則が局所的にバグるとか。だがこいつの場合は現象そのものを書き換える。起きたことを、起きなかったことにできる」
のどかの指が、無意識にデスクの縁を握った。
「それって——」
「レベルが世界災害で収まっても、やってることの中身が次元に片足突っ込んでる場合がある。一部の連中はそう見てる」
「次元災害……」
「今のところは可能性の話だ。ただ、数年前の時点でもかなり際どかった」
課長はデスクの上のタバコを指先で転がした。火をつける気配はない。ただ、そうしていないと手が落ち着かないように見えた。
モニターの赤いバナーが、また一本増えた。四本目。中東方面。
「課長、各国の通信が入り始めてます。緊急連絡会議の招集——」
「だろうな」
課長は椅子の背にもたれて、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が、いつも通りそこにある。
「……新人。各国の動きを追え。全チャンネル開けっ放しでいい」
「はい」
「研修生。過去資料を全部引っ張れ。前回の観測データ、対応記録、事後報告、全部だ。俺の記憶だけじゃ足りない」
「了解ですわ」
のどかがモニターに向き直ると、赤いバナーはもう五本目に達していた。画面の隅では、赤ちゃん怪獣がぴくりと耳を動かし、毛布の中に顔をうずめた。
——ぴし。
また、あの音がした。今度はさっきより、ほんの少しだけ近い。
◆
最初の三十分は、情報の洪水だった。
のどかのモニターには各国の通信が次々と流れ込んでくる。テキスト、音声、映像。翻訳フィルターが追いつかず、英語とフランス語とアラビア語が混線して画面の端で点滅している。
エミリが隣で高速タイピングしながら、要点だけを拾い上げていく。
「欧州連合、緊急声明を準備中。北米支部は独自に分析チームを編成。中東方面は——とりあえず怒ってますわね」
「怒ってる?」
「『日本の監視対象がなぜ再発した。管理責任はどうなっている』と」
のどかは画面をスクロールする。似たような文面がいくつも並んでいた。「日本の管轄だろう」「数年間何をしていた」「なぜ事前に対処できなかった」。言語は違えど、言っていることは同じだった。
「……こっちのせいですか」
「いつものことだ。でかい災害は全部、発生地の責任にされる」
課長はデスクの上のタバコを指先で転がしながら、モニターを見ていた。表情は変わらない。
エミリが眉をひそめた。
「課長、発動のトリガーが判明しました。北米支部の心理分析班からの速報です」
「何だ」
「彼氏と別れたそうです」
一瞬、課が静まった。
「……は?」
のどかが思わず声を漏らす。
「二週間前に交際相手と破局。以後、感情の不安定化が加速し、現実改変が発動した——と」
エミリの声は淡々としていたが、読み上げた本人もどこか釈然としない顔をしていた。
モニターの向こうでは、すでに各国の首脳級が反応し始めている。のどかの画面にテキストが走った。
《フランス外務省「失恋で世界が滅びるのか? 冗談ではない」》
《北米統合司令部「十代の恋愛感情で国際災害を引き起こすな」》
《中東方面連合「我々の防衛予算は、少女の恋愛相談のために存在するのではない」》
のどかは画面を見ながら、唇を引き結んだ。言いたいことはわかる。わかるけれど、何か引っかかる。
奥のデスクから、低い声が聞こえた。ヨルさんが、いつの間にか夜勤明けのまま自席に座っていた。髪はまとめてもいないし、目の下に薄いクマがある。
「……各国、ずいぶん偉そうね」
「ヨルさん、いつからいたんですか」
「さっきの音で目が覚めた。あの音、嫌な感じだったから」
ヨルさんはコーヒーの紙カップを両手で包みながら、モニターを横目で見た。
「失恋ごときで、って顔してるわね、あの人たち」
課長がタバコを指先で止めた。
「ごときじゃねぇんだよ」
声のトーンはいつもと変わらない。淡々として、平坦で、感情の波が見えない。けれど、言葉の選び方が違った。
「彼氏と別れた。たったそれだけのことだって、あっちの連中は思ってる。たかが恋愛、たかが若い女の子の悩みだってな」
課長はデスクの上のタバコを取り上げて、唇に近づけた。一瞬だけ咥えかけて、また下ろす。
「だが、本人にとっちゃ世界の全部だろ。好きな相手に向き合って、振られて、泣いて。それのどこが『ごとき』だ。一生懸命に人と向き合ってる証拠じゃねぇか。真剣に誰かを好きになって、真剣に傷ついた。結構なことだろ」
エミリの手が止まっていた。ヨルさんも、紙カップを口元で止めたまま動かない。
「……それで世界が壊れるのは、まあ、困るがな」
課長はそう付け足して、ようやくコーヒーに手を伸ばした。一口飲んで、マグカップを置く。
「新人、各国の通信まとめろ。文句は聞き流していい」
「……はい」
のどかはモニターに向き直った。胸の奥の棘が、少しだけ形を変えた気がした。棘というよりは——重さだった。
——ぴし。
また、あの音。三度目。さっきよりも、もう少しだけ近い。
◆
各国の文句は一時間で収まった。文句が収まったというよりは、事態が文句を言っている場合ではなくなったのだ。
現実改変の指数がじりじりと上昇を続けている。欧州では街路の色彩が薄れ始め、北米では一部地域で音声通信にノイズが走り、東南アジアでは空の色が白く濁り始めた。いずれも物理的な破壊ではない。世界そのものが、少しずつ「薄く」なっていく。
そして、緊急連絡会議は唐突に方針を転換した。
「……課長、各国の統合対策本部から新しい作戦案が来ました」
エミリの声がわずかに震えている。震えているのは恐怖ではなく、困惑だった。
「読め」
「作戦名——『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』。概要:対象の感情を安定化させるため、各国が選抜した最適な人材を対象の改変空間に投入し、疑似的な恋愛関係を構築することで現実改変の自然減衰を図る」
沈黙。
「……もう一度、いいですか?」
のどかが聞き返した。
「対象に彼氏を作る。各国が候補を出す。以上ですわ」
「…………」
「……マジですか」
「マジですわ。国連安保理直下の緊急決議を経て、全会一致で承認されていますわ」
のどかは天井を見上げた。この一年で相当なことには慣れたつもりだったが、まだ慣れていない領域があったらしい。
ヨルさんが紙カップのコーヒーを飲み干した。
「世界の叡智を結集して、女の子に彼氏を用意するってわけ」
「そういうことだな」
課長の声は、相変わらず平坦だった。
「人類、バカですわね」
「バカで結構だ。真面目にバカやるしかないときもある」
モニターに、各国から候補者のプロフィールが流れ始めた。顔写真、身体データ、性格分析、恋愛適性スコア。国家の威信をかけた「理想の彼氏」リストが、次々と画面を埋めていく。
「……これ、全部税金ですよね」
「考えるな新人。頭がおかしくなるぞ」




