第7話「返事をしなくていい言葉がありました」
午前九時。モニターが、何も映していなかった。
正確には映している。庁舎内の監視カメラ、各フロアの環境データ、全国の異常報告ダッシュボード。どれも正常に稼働している。ただ、表示されている内容がすべて同じだった。
異常なし。
のどかは画面を三度確認した。スクロールしても、更新しても、結果は変わらない。赤い枠の速報表示はゼロ。黄色の注意表示もゼロ。グラフの線はすべて水平で、まるで心電図が止まったように見える。
もちろん、止まっているのは心臓ではなく、世界の方だった。
「……課長、本当に何もないんですか」
課長はいつもの椅子に深く沈んでいた。マグカップを傾ける動作すら、今日はゆっくりだった。
「いいねぇ。何も起きない」
ヨルが窓の外を見ていた。冬の陽射しが、庁舎の廊下を白く照らしている。
「夢じゃないの、これ」
「年始に事件ゼロって、本当にあるんですね……」
エミリが端末から顔を上げた。画面にはやはり「異常なし」が並んでいる。確認癖のあるエミリが、もう確認する意味がないと悟った顔をしていた。
「七草の日は、世界が胃もたれを反省する日だからな。異界も休業中だ」
課長がそう言って、コーヒーを一口飲んだ。冗談なのか本気なのか、この課ではどちらでも通る。
のどかはモニターの前で、少し途方に暮れていた。この職場に来てから、「何もしなくていい朝」は記憶にない。始業の瞬間から警報が鳴るか、昨夜の案件の残務があるか、少なくとも何かしらの書類が積まれているのが普通だった。
デスクの上には、今日の分の書類がない。
「……なんか、逆に落ち着かないです」
「慣れろ。休める日に休めるのも仕事だ」
課長の声は穏やかだった。いつもの淡々とした口調の奥に、わずかに緩みがある。今日だけの、特別な空気。
そこに、温かい匂いが漂ってきた。
◆
ヨルが、鍋を持って休憩室から戻ってきた。
両手で抱えた土鍋から、白い湯気が立ち上っている。出汁の匂い。その中に、青い草の香りがかすかに混じっていた。
「はい、七草粥できたわよ。夜勤明けのサービス」
のどかが目を丸くした。
「ヨルさん、作ってくれたんですか」
「夜勤中、暇だったからね。今年は本当に何もなかったから」
ヨルがテーブルの上に鍋を置いた。蓋を開けると、白い粥の中に七種の緑が散っている。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ。刻まれた葉が粥の表面に浮かんで、小さな模様を作っていた。
「うわぁ……優しい香りですね」
のどかが顔を近づけた。
エミリが鍋を覗き込んだ。
「……いい香りですけど、ちょっと草原っぽくないですか? 」
「冷蔵庫の奥にあった葉っぱが混ざったかも。たぶん異界産」
ヨルがさらりと言った。
「たぶん……? 」
「火は通したから大丈夫よ」
課長が椅子から立ち上がった。
「異世界産も腹に入れば同化する。問題ない」
根拠のない断定だったが、誰も反論しなかった。この課では、火を通せばだいたい大丈夫、というのが暗黙の了解になっている。
ヨルが棚から湯飲み茶碗を出した。人数分。ひとつひとつ粥をよそっていく。白い湯気が、それぞれの茶碗から立ち上った。
のどかが茶碗を受け取った。両手で包むと、じわりと温かかった。
「いただきます」
四人の声が、ほぼ同時に重なった。
静かな庁舎に、粥をすする音だけが響いた。塩味は薄い。出汁は優しい。草の香りがふわりと鼻に抜ける。異界産かもしれない葉っぱの味は、特に変わったところはなかった。普通に、美味しかった。
「こういう日、初めてです」
のどかがぽつりと言った。
「一年に一度だけよ。仕事も世界も、少しだけ止まる日」
ヨルが茶碗に口をつけた。夜勤明けの顔だが、目元が少しだけ柔らかい。
エミリが粥をすすりながら、小さく笑った。
「なんだか、正月らしいですね。ようやく」
「正月は三日前に終わったぞ」
「気持ちの問題です」
課長が鼻で笑った。否定はしなかった。
◆
粥を食べ終えた頃、ドアが開いた。
「おーい、みんな生きてるー? 」
軽い声だった。全員が振り返った。
「ぶ、部長……! 」
結城さくらが、コンビニの袋を片手にぶら下げて立っていた。
スーツはいつものヨレヨレだ。ただ、今日は髪を下ろしていた。普段のツインテールではなく、肩にかかる長さの黒髪がそのまま垂れている。それだけで、印象がずいぶん違って見えた。コーヒーの紙カップをもう片方の手に持って、ドアの枠にもたれかかっている。
「七草やってるのね。いい匂い」
「部長、今日は出勤だったんですか」
のどかが聞くと、部長は肩をすくめた。
「覗きに来ただけよ。七草の日は静かだから、ここの顔見に来るのが習慣みたいなもの」
ヨルが茶碗をひとつ取り出した。
「まだ残ってますよ。どうぞ」
「あら、もらうわ」
部長が椅子を引いて座った。デスクの端に紙カップを置き、茶碗を受け取る。粥をひと口すすって、ふぅ、と息を吐いた。
「……おいしいわね、これ」
「異界産の葉っぱが混ざってるかもしれませんけど」
「火を通してるなら平気でしょ」
部長の判断基準も、課長と同じだった。
エミリがおそるおそる口を開いた。
「結城部長って、普段こういう休みの日はどうされてるんですか? 」
「家で冷凍庫の整理かなぁ。魔力アイスって溶けないのよ。場所だけ取って」
「スケールが違いますね……」
のどかが呟いた。部長は笑って、粥をもうひと口すすった。
「ねぇ課長、昼どうする? 粥だけじゃ足りないでしょ」
課長が顎に手を当てた。
「食堂、正月休みで閉まってますよ」
「じゃ、出前頼もう」
部長がスマートフォンを取り出した。画面をスクロールしている。
「……あ、あったあった。ウーバーヒーツ」
のどかが聞き返した。
「ウーバー……ヒーツ? 」
「ウーバーイーツじゃないんですか」
エミリが画面を覗き込んだ。
「ロゴが雪だるまですね……」
ヨルが腕を組んだ。
「嫌な予感しかしないわね」
課長が部長を見た。
「経費で? 」
「んにゃ、自腹で」
「やっぱその辺しっかりしてる」
課長は感心したように頷いた。部長は画面をタップして、注文を完了した。
「三十分で届くって。レビュー五つ星よ」
「何頼んだんですか」
「冷やし中華」
のどかが固まった。
「……冬に、ですか」
「冬こそ冷やし中華でしょ。温かいものは飽きるわよ」
部長の理屈は、いつも独特だった。
◆
三十分後、廊下の空気が変わった。
気温が下がった。はっきりとわかるくらいに。デスクの上のコーヒーから立ち上る湯気が、いつもより白く見える。窓ガラスの端に、薄い霜が這い始めていた。
廊下の奥から、キィ、と小さな音が聞こえた。空気が凍る音だ。
のどかは自分の息が白くなっているのに気づいた。
「……来ましたね」
ドアが開いた。
白い霧が、足元からゆっくりと流れ込んできた。冷気が室内に広がる。エミリが思わず両腕をさすった。
霧の中から、人影が現れた。
青白い肌。長い黒髪。制服の上に「ウーバーヒーツ」のエプロンを着けている。片手に氷結したスマートフォン、もう片方の手にデリバリーバッグ。バッグの表面には霜がびっしりと付いていた。
「ウーバーヒーツです。ご注文の冷やし中華、お届けに参りました」
穏やかな声だった。笑顔も穏やかだ。ただ、その笑顔の周囲の気温だけが異常に低い。
のどかは立ち上がった。
「あっ……雪ノ下さん、ですよね」
ゆきのが目を丸くした。
「まあ、覚えていてくださったんですか。夏ぶりですね、のどかちゃん」
「かき氷、美味しかったです」
「ありがとうございます」
ゆきのがにっこりと笑った。室温がまた少し下がった気がしたが、笑顔のせいかもしれない。
エミリがゆきのをじっと見ていた。
「あの……まだあそこでバイトされてるんですか? 」
「はい、エミリちゃん。冬場はウーバーヒーツの方が忙しいんですけど、かけもちで」
「働きますね……」
ヨルが呟いた。
「生活があるので」
ゆきのが微笑んだ。その答えが妙に現実的で、のどかは少し親近感を覚えた。
ゆきのがバッグを開けた。中から、透明な容器に入った冷やし中華が出てきた。麺の上に色とりどりの具材が並んでいる。錦糸卵、きゅうり、ハム、紅生姜、トマト。見た目は綺麗だった。容器の表面は霜で覆われているが、中身はちゃんと冷やし中華の形をしている。
「人数分お持ちしました。タレは別添えです」
部長が手を叩いた。
「わぁ、おいしそう。ありがとう」
ゆきのがタレの小袋を並べながら、ふと思い出したように言った。
「あ、店長からの言付けです。セントラルキッチンの味は最高だろう、と」
のどかが箸を止めた。
「……市販品なんですか? 」
「はい。店長は自信を持ってレトルトと冷凍食品を出す方なので」
ヨルが小さく笑った。
「ブレないわね、あの店長」
「素材の良さは関係ない、調理の手間も関係ない、大事なのは安定した味だと常々言っておりまして」
ゆきのが真面目な顔で伝えた。言付けを忠実に届ける律儀さが、この人らしかった。
課長が箸を取った。
「合理的だな。食ってみるか」
全員で、冷やし中華に手をつけた。
冷たかった。当然だが、冷たかった。ゆきのが運んできたのだから、普通の冷やし中華より確実に温度が低い。麺はキンキンに冷えていて、口に入れた瞬間に歯がきしむほどだった。
だが、味は普通に美味しかった。
「……美味しいですね、これ」
のどかが素直に言った。
「でしょう? セントラルキッチンですから」
ゆきのが嬉しそうに笑った。
エミリが麺をすすりながら首を傾げた。
「確かに美味しいですけど……冬に食べる冷やし中華って、なんだか不思議な感じですね」
「冷たいほど味が締まるんです。夏に食べるより、冬の方が麺のコシがわかりますよ」
「それは……一理あるかもしれません」
エミリが真面目に頷いた。
テーブルの上には、湯気の立つ七草粥の鍋と、霜のついた冷やし中華の容器が並んでいた。温かいものと冷たいもの。和食と中華。手作りと市販品。どれも噛み合っていないはずなのに、なぜか調和していた。
部長が粥と冷やし中華を交互に食べていた。
「温冷交互、胃に優しいわね」
「優しいんですか、それ……」
のどかが首を傾げたが、部長は気にしていなかった。
課長がコーヒーを一口飲んだ。粥と冷やし中華とコーヒー。組み合わせとしては最悪だが、課長の顔は穏やかだった。
「……悪くない昼飯だな」
「不思議な組み合わせですけどね」
ヨルが窓の外を見た。冬の陽射しが、テーブルの上を白く照らしている。
◆
食事が終わった。
ゆきのが容器を片づけて、丁寧に一礼した。
「ごちそうさまでした。……あ、いえ、召し上がっていただいたのはそちらですね。ありがとうございました」
「こちらこそ。美味しかったです」
のどかが頭を下げた。
「また何かあれば、ウーバーヒーツをご利用ください。冬季限定で、おしること冷やしぜんざいもやってます」
「冷やしぜんざい……」
「餡子が凍ってて、シャリシャリしますよ」
エミリが少し興味を示した顔をしたが、何も言わなかった。
ゆきのがドアに向かった。振り返って、もう一度微笑んだ。
「では、また。夏にでも」
「夏にかき氷、また食べたいです」
のどかが手を振った。ゆきのは小さく会釈して、廊下に出た。ドアが閉まった。しばらくして、廊下の冷気が薄れていった。窓ガラスの霜が、少しずつ溶け始めている。
◆
午後。モニターは依然として「異常なし」を表示していた。
のどかはデスクに戻ったが、やることがなかった。書類の束もない。警報も鳴らない。端末の画面は水平線のまま動かない。
エミリがファイルを整理していたが、整理するファイルもすぐに尽きた。手持ち無沙汰になって、湯飲みを両手で包んでいる。
「……誰も騒がない、誰も怒らない。電話も鳴らない」
「いいですね、こういう日」
のどかがそう言うと、エミリが小さく頷いた。
「ちょっと、慣れないですけど」
課長が椅子を倒した。背もたれが限界まで傾く。
「今日は勤務中睡眠許可日だ。寝とけ」
「そんな制度あるんですか……」
「今、作った」
部長が笑った。紙カップのコーヒーを飲み干して、窓際の椅子に移動していた。
「それ、正式に制度化しようかしら」
「本気ですか」
「半分くらい」
ヨルがデスクに突っ伏した。夜勤明けの疲労が、平和な空気の中でようやく出てきたらしい。目を閉じて、すぐに呼吸が穏やかになった。
エミリも、椅子の上で少しずつ姿勢が崩れていった。ファイルを胸に抱えたまま、こくりこくりと舟を漕いでいる。
課長は椅子を限界まで倒して、マグカップを腹の上に置いた。目は閉じているが、起きているのか寝ているのかわからない。いつも通りだった。
のどかはモニターを見つめていた。「異常なし」。同じ表示がずっと続いている。
窓の外では、冬の陽射しが傾き始めていた。午後の光が、庁舎の中を斜めに横切っている。ほこりが光の筋の中で静かに舞っていた。
部長が窓の外を眺めていた。コーヒーの紙カップはもう空だ。それでも手に持ったまま、外の景色を見ている。
「……静かな日があるから、また頑張れるのよね」
独り言のような声だった。のどかの耳には届いたが、返事はしなかった。返事をする必要のない言葉だった。
モニターの「異常なし」が、また一分更新された。
のどかは、少しだけ目を閉じた。
——業務日誌——
案件名:七草の日・終日異常なし
発生場所:地球防衛軍極東方面日本支部・庁舎内
災害区分:該当なし
被害状況:なし
対応:特筆事項なし。通常監視のみ。
備考:ヨルさんの手作り七草粥および、ウーバーヒーツ(雪ノ下さん配達員)による冷やし中華にて昼食。費用は部長の自腹。午後、課長の独自判断により「勤務中睡眠許可」が発令。部長も追認。何もない日の報告書は、何を書けばいいのかわかりません。
※観測できない災害は人災扱いとして処理済み。




