第6話「報告書が薄いと逆に不安です」
朝の庁舎は、珍しく穏やかだった。
のどかがデスクについて端末を立ち上げた時点では、まだ平和だった。蛍光灯は全部点いている。空調も正常。天井から異音もしない。ここ最近にしては、上出来の朝だった。
エミリがファイルを整理している。ヨルは夜勤明けのはずだが、まだコーヒーサーバーの前にいた。課長はいつもの椅子でマグカップを傾けている。ブラックコーヒー。湯気が立っている。珍しく、淹れたてだった。
警報が鳴ったのは、のどかがコーヒーを一口飲んだ直後だった。
端末の画面が切り替わる。赤い枠の速報表示。のどかは反射的にマグカップを置いた。
「異世界の門が都内に複数出現しています。現在確認されているのは……五カ所」
エミリが自分の端末を読み上げた。渋谷、新宿、池袋、上野、品川。いずれも人口密集地だ。
のどかはモニターを衛星映像に切り替えた。都心の地図の上に、黒い楕円形の亀裂が五つ、点在している。最大のものは渋谷のスクランブル交差点の真上だった。道路を塞ぐほどの大きさがある。門の縁が脈打つように明滅していて、向こう側の空気がこちらに流れ込んでいるのが映像でもわかった。
「個々の門は都市災害レベルですけど、五カ所同時となると……」
「全体で見れば国家災害に近いな」
課長がマグカップを置いた。だが、声に緊張はなかった。むしろ、いつもより穏やかにすら聞こえる。
「ただし、中身による」
「中身、ですか」
「門がでかくても、出てくるのが雑魚なら話は別だ」
エミリが追加のスキャンデータを引っ張っていた。指が端末の上を走る。
「門の向こう側の環境スキャンが出ました。生体反応は……多数。かなりの数です。ただし、個体ごとの知能指数は極めて低く、身体速度も通常人間の三分の一以下。組織的な行動パターンの兆候はありません。体温は周辺環境と同値。つまり——」
「死体が動いてるってことだな」
課長があっさり言った。
「ゾンビだ」
ゾンビ。映画や漫画ではおなじみの存在だ。だが、異世界の門から現実に出てくるとなると話は違う。数が多ければ都市機能を麻痺させるし、感染型であれば被害は指数関数的に拡大する。
「ゾンビですか……。数が多いと厄介ですよね。レベルも都市災害ですし、対処の遅れが被害拡大に直結しますけど」
のどかがそう言って課長を見た。対処方針の指示を仰ぐ、いつもの流れだ。
だが、課長の顔は、いつもと違っていた。
緊張していない。どころか、どこかホッとしているように見える。
「まぁ、久しぶりにまともな災害だ」
エミリが目を丸くした。
「まとも……ですか? 国家災害級ですよ? 」
「規模の話じゃねぇ。中身の話だ」
ヨルがコーヒーサーバーの前から声を出した。夜勤明けの顔だが、声は落ち着いている。
「ここ最近、感情だのシステムだの、実体のない案件ばっかりだったじゃない。承認欲求が現実を書き換えるとか、恋愛テンプレートが街を侵食するとか。あれに比べたら、殴って倒せる相手は楽よ」
課長が頷いた。
「物理が効く。目に見える。動きが遅い。わかりやすくていい」
のどかは課長とヨルの顔を交互に見た。二人とも同じ空気だった。安堵、とまでは言わないが、「これなら対処の仕方がわかる」という手応えのようなもの。
「……なんか、皆さん嬉しそうですね」
「嬉しいってことはねぇが、説明が楽だ。報告書も書きやすい」
ヨルがカップを傾けた。
「私、ゾンビものって好きじゃないのよね」
唐突な言葉だった。のどかが首をかしげる。
「映画とか、ですか? 」
「そう。ゾンビものってだいたい、最後に生き残るとは何かとか哲学ぶって投げっぱなしで終わるじゃない。あれが嫌い」
「投げっぱなし……」
「終わらないエンドっていうの? 人類は滅びましたけど希望はあります、みたいな。あれ無責任よね」
エミリが小さく頷いた。
「わかります。決着がつかないまま終わる作品、モヤモヤしますよね」
「しかも続編で結局また同じことやるのよ。走るゾンビが出てきたり、知能持ったゾンビが出てきたり、インフレするだけで本質は変わらない」
ヨルがため息をついた。
「要するに、終わらせる気がないのよ」
課長が鼻で笑った。
「安心しろ。現実だと終わるんだよ、ちゃんと」
のどかがその言葉の意味を考えている間に、課長の端末に着信が入った。
◆
課長が受話器を取った。数秒聞いて、短く返事をして、受話器を置いた。
「国防軍から要請が来た」
「国防軍? 」
国防軍。防衛軍とは別の、通常戦力を管轄する組織だ。怪異や異世界案件は防衛軍の守備範囲だが、通常の軍事的脅威に対応するのは国防軍になる。普段、両者の案件が重なることはほとんどない。
「演習させてくれってさ」
「演習……? 」
のどかはペンを止めた。
「ちょうどいい実弾演習の機会だから、門の管轄はそっちだが、中身が物理で倒せるなら実戦訓練に使わせてくれ、と」
「そんなことってあるんですか」
「たまにある。怪獣でも物理耐性が低いやつだと向こうから声がかかる。うちとしても、通常兵器で片づく案件に人員を割かなくて済むから助かるんだ」
エミリが端末を見ながら首を傾げた。
「でも、対処できるんですか? 戦力としてはあるんでしょうけど、怪異を相手にするノウハウは防衛軍とは違いますよね」
課長がコーヒーを一口飲んだ。
「まぁ見てろ。国防軍だってバカじゃねぇ。物理で死ぬ相手を物理で殺すのは、あいつらの本業だ」
のどかは少し不安が残ったが、課長がそう言うなら見守るしかない。モニターを渋谷のカメラに切り替えた。
◆
衛星映像とは別に、地上のカメラが数台、渋谷の交差点を捉えていた。
スクランブル交差点は完全に封鎖されている。避難は完了済みだ。いつもは人で溢れる交差点が無人で、ビルの壁面広告だけが誰もいない道路を照らしている。
その中央に、門がある。
黒い楕円形の亀裂。縁が脈打つように明滅している。まだ開ききっていない。隙間から、かすかに腐臭を含んだ風がこちら側に流れ込んでいるのが、カメラの前で揺れるテープの動きでわかった。
門の周囲を、国防軍の部隊が囲んでいた。
のどかはモニターに目を凝らした。装甲車が数台。歩兵が展開している。重火器ではなく、小銃が中心だった。陣形は門を中心に半円形で、射線が交差しないように配置されている。
「……きっちり囲んでますね」
課長がモニターを横目で見た。
「当たり前だ。あいつらは陣形と火線管理のプロだからな」
エミリがデータを読み上げた。
「他の四カ所にも国防軍の部隊が展開済みです。渋谷が最大規模で、他は小隊規模で対応するとのことです」
「こっちからの支援は? 」
のどかが課長に確認した。
「いらねぇだろ。必要になったら呼ぶと言ってた。念のため人災レベルのヒーローを二、三人待機させてるが、出番はねぇと思うぞ」
モニターの中で、門の亀裂が広がり始めた。
のどかは画面に目を戻した。
門がゆっくりと開いていく。
隙間から見えたのは、暗闇だった。そして、その暗闇の中に——動くものがあった。
ゾンビの群れだった。
画面越しでも、その数は把握しきれなかった。門の向こう側、奥行きの見えない暗闇の中に、びっしりと人型のシルエットが詰まっている。どこまで続いているのかわからない。前列のゾンビの顔が、門の光に照らされて見えた。腐敗した皮膚。虚ろな目。半開きの口。動きは遅いが、数が、数が途方もない。
(……これは、まずい)
規模が違った。スキャンで「多数」と出ていたが、映像で見ると印象がまったく変わる。あの門から全部出てきたら、渋谷が埋まる。他の四カ所も同じなら、都心が沈む。
門が完全に開いた。
先頭のゾンビが、こちらの世界に足を踏み出そうとした。
ターン、と軽い音がした。乾いた、短い破裂音。
先頭のゾンビの頭が弾け、そのまま前のめりに倒れた。門の縁に体がもたれかかり、ずるりと滑り落ちる。
一発。
たった一発で、動かなくなった。
続けて、二発目。三発目。四発目。
ターン。ターン。ターン。
軽い音が、リズムのように続いた。門から出ようとするゾンビが、一歩目を踏み出す前に倒れていく。一体、また一体。正確に頭部を撃ち抜かれて、こちら側の地面に触れることすらできないまま崩れ落ちる。
のどかはモニターの前で、口を半開きにしていた。
射撃が途切れない。門の幅は限られている。一度に出てこられるゾンビの数は、せいぜい五体か六体。しかもその動きは遅い。門をくぐるという行為自体が、彼らにとっては精一杯の速度なのだ。
対して、国防軍の射手は門の正面に半円形で展開している。射線は完全に管理されていて、無駄弾がない。一体につき一発。たまに二発。それだけで、ゾンビは門の敷居を越えられない。
門の向こう側では、まだ無数のゾンビがひしめいている。だが、出口が狭い。出口が狭くて、速度が遅くて、一発で死ぬ。
それは戦闘ではなかった。
射撃訓練だった。
課長がコーヒーを飲んだ。
「そりゃそうだ。あんなノロマな動く的、当て放題だろ」
のどかはモニターから目を離せなかった。
「出現位置も時間もわかってる。門の大きさで一度に出られる数も限られてる。しかも古典的なゾンビだ。速くない、賢くない、武器も持ってない。条件が揃いすぎてる」
課長は淡々と言った。
「漫画やアニメだと、気づいたら街中にゾンビが溢れてて世界的パニックになるだろ。あれはゾンビがいつの間にか大量発生してるから成立するんだ。出現場所と時間がわかってて、出口が限定されてて、相手がノロマなら——こうなる」
モニターの中で、射撃が続いていた。もはや単調な作業だった。門の向こうのゾンビは次々と押し出されてくるが、敷居を越えたゾンビは一体もいない。
エミリがモニターを覗き込んだ。
「……あの、これ、終わるんですか? 」
「門の向こうの総数が有限なら終わる。無限なら門を閉じる。どっちにしろ終わる」
ヨルがカップを置いた。
「ほらね。現実だと終わるのよ、ちゃんと」
のどかはモニターを見つめていた。ゾンビの山が、門の向こう側に積み上がっている。こちら側には一体も入ってきていない。渋谷の交差点は、無人のまま、静かだった。
古典的なゾンビ。ただの、脆くて、遅くて、知能のない生き物。
フィクションでは世界を終わらせるほどの脅威が、現実の火力の前では門をくぐることすらできない。
のどかは、静かに納得した。
モニターから目を離した。
「……他の四カ所も同じ状況ですか」
エミリが端末を確認した。
「はい。新宿、池袋、上野、品川、いずれも国防軍が封殺しています。こちら側への突破はゼロです」
「待機中のヒーローは」
「出番なし。暇そうにしてます」
課長がマグカップを傾けた。
「だろうな」
◆
二時間後、五カ所すべての門が閉じた。
被害はゼロだった。避難による交通規制と、国防軍の弾薬消費を除けば、実質的な損害は何もない。渋谷の交差点には薬莢が散らばっていたが、それは国防軍の回収班が片づけた。
庁舎に静けさが戻った。
のどかは報告書を書いていた。ペンが進まない。
「……課長、ゾンビの件、あっさりすぎて報告書が薄いんですけど」
「それでいい。事件より書類が厚い方がおかしいんだ」
「でも、国家災害級の判定で起票してるので、それに見合う分量が……」
「判定は判定。結果は結果だ。中身が薄けりゃ書類も薄い。当たり前だろ」
ヨルが伸びをした。
「久しぶりに仕事してるって感じの案件だったわね。座ってモニター見てただけだけど」
エミリがファイルを閉じた。
「心が落ち着く災害って初めてです」
「災害に落ち着きを求めるな」
課長がマグカップを流しに持っていった。蛇口をひねる音がした。
「まぁ、こういう日もある。物理で片づく、わかりやすい案件。報告書はA4一枚。残業なし。それでいい」
のどかはペンを置いた。報告書は確かに薄い。経緯、対応、結果。それぞれ数行で終わる。
「……次もこうだといいですね」
課長が振り返った。
「ねぇよ。次はどうせ、また訳のわからんのが来る」
のどかはため息をついた。
「ですよね……」
ヨルが窓の外を見た。
「まぁ、訳のわからないのが来るから、この仕事は続くのよ」
エミリが小さく頷いた。
「物理で倒せる相手だけなら、防衛軍は要りませんもんね」
その言葉に、のどかはふと手を止めた。
そうだ。国防軍で対処できるなら、防衛軍の出番はない。物理で倒せない、理屈で説明できない、常識で処理できない——そういう案件があるからこそ、この課は存在している。
今日の平穏は、裏を返せば、この課が必要とされなかった一日だ。
それを「いい日」と思えるのは、たぶん正しい感覚なのだろう。
のどかは報告書の最後に一行書き加えて、ファイルを閉じた。
——業務日誌——
案件名:異世界の門・都内複数出現事案(ゾンビ型)
発生場所:渋谷、新宿、池袋、上野、品川(都内五カ所)
災害区分:国家災害級(規模)/実質・人災レベル(中身)
被害状況:物理被害ゼロ。避難による交通規制と国防軍の弾薬消費のみ。
対応:国防軍からの演習要請を受け、現場対応を委託。全門において国防軍が封殺し、こちら側への侵入はゼロ。防衛軍の実動出動なし。待機ヒーローの出番もなし。
備考:対応ファイルは国家災害級で起票済みだが、実態としてはA4一枚で完結。報告書が薄いと逆に不安になるのは、この仕事に慣れてきた証拠かもしれない。
※観測できない災害は人災扱いとして処理済み。




