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第4話②「東雲さんがトイレ掃除を申し出ました」

 ◆


 テープの処理を終えて、休憩室に沈黙が戻った。


 のどかがコーヒーを淹れ直し、エミリがカップを受け取る。課長はマグカップの底に残った液体を揺らしていた。ヨルは窓際に寄りかかって、夜の庁舎の外を眺めている。


 深夜の休憩室。蛍光灯の明かりと、コーヒーの匂い。少しだけ、時間が緩んでいた。

 ヨルがふと、思い出したように口を開いた。


「……そういえば、幽霊ってエッチな話が苦手だって言うわよね」


 空気が止まった。

 のどかがカップを持ったまま固まった。エミリのカップを持つ手が宙で止まっている。課長だけはコーヒーを飲み続けていたが、飲み込む音がやけに大きく聞こえた。


「えっ……そうなんですか……? 」

「データとしては確認されていないと思いますけど……そういう統計は……」

「統計で出る話じゃねぇだろ」


 沈黙。

 誰も、次の言葉を継げない。


 真面目すぎて、この話題の扱い方がわからないのだ。四人がそれぞれ別の方向を見ていた。のどかはカップの中、エミリは天井、課長は自分のマグカップ、ヨルだけが全員の顔を見回している。


「……もしかして、誰も心当たりないの? 」


 ヨルが全員の顔を見回した。

 のどかが顔を赤くしながら、真剣な目をした。何かを考えている。真面目に、一生懸命考えている。


「じゃあ……その、そういう話をすれば対策になるんじゃ……」

「たとえば? 」

「……えっと……キスとか……! 」


 一拍の間があった。


「小学生ですか!?」

「やめろ。勤務中だ」


 課長とエミリの声が同時だった。

 のどかがしゅんと肩を落とす。真面目に考えた結果がこれだった。


「真面目すぎて逆に怖いわね、うちの課」


 ヨルがカップを傾けた。


「色気のない職場ってのは、ある意味で最強の魔除けだな」


 課長がそう言って、話が終わった。


 のどかはため息をひとつ吐いて、ファイルに目を戻した。ホワイトボードの「悪口を言う」には、いつの間にか線が引かれていた。誰が引いたのかはわからないが、確かにこの話題の間、誰も悪口は言っていない。むしろ、誰も何も言えなかった。

 ホワイトボードを見る。

 潰した項目に線が引かれていた。窓、電話、映像、悪口。

 残っているのは一つだけだった。


 一、トイレに一人で行く。


 のどかがペンを置いた時、視界の端でエミリが妙にそわそわしているのが見えた。


 椅子の上で何度も座り直している。ファイルに目を落としているが、明らかに文字を追っていない。膝が小刻みに揺れている。


「……東雲さん」

「はい? 」

「もしかして、トイレ……」


 エミリの動きが止まった。


 一瞬の沈黙のあと、小さく頷いた。


「……さっきから、ずっと我慢してます」


 その声は、普段の冷静なエミリのものだった。だが、姿勢の落ち着きのなさが、言葉以上に切迫感を伝えている。


 課長がホワイトボードをちらりと見た。最後の一行。「トイレに一人で行く」。


「行ってこい」

「でも、一人で行ったら死ぬって……」

「テンプレだ。死なねぇよ」

「根拠は? 」

「俺の勘」


 エミリは唇を結んだ。恐怖と生理現象の板挟みになっているのが、姿勢だけで伝わってくる。背筋は伸びているが、足元が定まらない。

 のどかが立ち上がりかけた。


「私が一緒に行き……」


「ダメだ」


 課長が遮った。


「テンプレの条件は"一人で行く"だ。二人で行ったら検証にならねぇ」


 エミリが立ち上がった。覚悟を決めた顔だった。唇はまだ結んだまま、背筋だけはまっすぐ伸びている。


「……行ってきます」

「気をつけて」


 のどかが声をかけた。エミリは小さく頷いて、ドアに向かった。


 ヨルが呟いた。


「理屈の人間が一番安全よ。たぶん」

「たぶんは余計ですわ……」


 語尾がわずかに崩れたことに、たぶん本人は気づいていない。


 ドアが閉まった。エミリの足音が廊下に消えていく。のどかはモニターに手を伸ばしかけたが、廊下のカメラはトイレの中までは映らない。

 待つしかなかった。


 ◆


 廊下は静かだった。


 エミリは足早にトイレへ向かった。蛍光灯は半分切れたままで、明るい箇所と暗い箇所が交互に並んでいる。自分の足音だけが反響していた。明るい場所を通り過ぎるたびに、暗い場所が余計に暗く感じる。


 トイレの前で、自動ドアが開閉を繰り返していた。

 開いて、閉まって、また開く。リズムは不規則だった。まるで呼吸しているように見えた。

 無線のスイッチを押した。


「……自動ドアが勝手に動いてます」

『故障だろ。気にすんな』


 課長の声は遠い。無線越しの声は、普段よりさらに淡々と聞こえた。


「故障にしては、タイミングが嫌な感じなんですけど……」

『機械に悪意はねぇ。さっさと行け』


 エミリは息を吸って、ドアの隙間を抜けた。


 トイレの中は静かだった。照明は点いている。白いタイルの壁。洗面台の鏡に自分の顔が映った。少し青い。目の下に隈ができている。深夜残業の顔だった。


 個室に入った。ドアを閉める。鍵をかけた。カチャリ、と小さな金属音が響いた。

 無線にノイズが走った。


「課長? 」


 ザザ、と音が途切れた。


 繋がらなくなった。


「……課長? 聞こえますか? 」


 応答はない。ノイズすら消えている。無線のランプが消灯していた。


 エミリは無線をポケットにしまった。


 個室の中に、自分の呼吸と換気扇の低い音だけが残った。壁に囲まれた狭い空間。天井の蛍光灯が、ジジ、と微かに唸っている。


「……大丈夫。ただのトイレ。文明の産物」


 便座が自動で開いた。

 肩が跳ねた。


「……っ! 」


 数秒、固まった。心臓が跳ねた分だけ、静寂がその後に重くなった。

 それから、小さく息を吐いた。


「……ここはジャパニーズ……自動で開くのは当たり前……。おもてなし。そう、おもてなし……」


 ぶつぶつと呟きながら、ようやく腰を下ろした。自分の声が個室の壁に跳ね返って、少し間抜けに聞こえた。


 用を足す間、何も起きなかった。

 静かだった。換気扇の音と、自分の呼吸だけ。


「……ふぅ。間に合った……」


 小さな安堵の息をついた。

 照明がチカチカと瞬き始めた。


「……え」


 点滅が速くなる。蛍光灯の唸りが大きくなった。

 消えた。

 完全な暗闇だった。

 非常灯の薄い緑だけが、足元をかろうじて照らしている。壁も天井も見えない。自分の手すら、輪郭がぼやけていた。


 エミリは息を殺した。

 暗闇の中で、自分の心臓の音だけがうるさい。ドクン、ドクン、と体の内側から響いてくる。

 足音が聞こえた。

 コツ、コツ、コツ。

 床を叩く、小さな音。ゆっくりと近づいてくる。

 一歩、また一歩。

 どこから来ているのかわからない。反響が距離を歪ませている。だが、確実に近づいている。それだけは、わかった。

 個室の前で止まった。

 沈黙。

 非常灯の緑の光の中に、ドアの下の隙間が見えた。何も映っていない。影すらない。だが、そこに何かがいる。圧だけが、扉の向こうから滲んでいた。


 ドンドンドンッ!!


「入ってますわぁぁぁ!!! 」


 叫んでいた。口調がどうとか、そんなことはもうどうでもよかった。

 叩く音は止まらない。

 ドンドンドンッ! ドンドンドンッ!!


 声はない。呼吸もない。ただ、圧だけが扉の向こうにある。扉が振動している。鍵がカタカタと鳴っている。


「無線……無線……! 」


 スイッチを押した。何度も押した。繋がらない。ランプは消えたままだ。

 涙が出ていた。

 手を合わせた。


「ジャパニーズ・トイレの神様ぁぁぁぁ!!! 」


 声が裏返っている。


「当番制でしたけど明日も掃除いたしますわ!! 」


 叩く音が続いている。


「特に念入りに……えっと……マイフレンド・オーガニック抗菌プラスで!! 漂白剤じゃなくてちゃんと天然成分で除菌いたしますわぁぁぁ!!! 」


 叩く音が弱まった。


「毎週ですわ! 毎週やらせていただきますわ! 水回りも鏡もピカピカにいたしますわぁぁぁ!!! 」


 音が止まった。

 静寂。

 蛇口から水が一滴落ちる音だけが、どこかで響いた。

 ふっ、と照明が点いた。

 目を開けた。


 蛍光灯の白い光が、いつも通りに個室を照らしていた。白いタイルが白く光っている。換気扇が、何事もなかったように回っていた。


 気配が消えていた。

 恐る恐るドアの鍵を外した。指が震えて、二度失敗した。三度目で開いた。少しだけ開ける。

 廊下は明るい。

 誰もいない。

 無線がザッと鳴った。


『おい、聞こえるか。状況報告しろ』


 課長の声だった。いつもと同じ、抑揚のない声。それがどれだけ安心するものか、エミリはこの瞬間に初めて知った。


「……き、消えましたわ……」

『浄化完了だ。戻ってこい』


 エミリは個室から出た。膝が震えている。


 鏡の前を通り過ぎるとき、自分の顔を見ないようにした。見たくなかった。どんな顔をしているか、想像するだけで十分だった。

 廊下を走った。全力で。


 ◆


 ドアが開いて、エミリが転がるように部屋に入ってきた。


 顔が真っ白だった。紙のような白さだ。


「も、もう二度と……単独任務はごめんですわぁぁぁ……」


 のどかが立ち上がって駆け寄った。


「お疲れさまです、東雲さん。大丈夫ですか」

「大丈夫じゃないです……全然大丈夫じゃないです……」


 口調が真面目モードに戻りかけているが、声はまだ震えていた。のどかがそっと椅子を引いてやると、エミリはそのまま崩れるように座った。


 課長がマグカップを持ち上げた。


「よくやった。お前の悲鳴で霊が逃げた」

「褒めてるんですか……けなしてるんですか……」


 ヨルが肩をすくめた。


「たぶん両方よ」


 エミリがパイプ椅子に崩れ落ちた。


 端末の異常報告が、一件も更新されなくなっていた。ホワイトボードの最後の項目、「トイレに一人で行く」に、のどかが静かに線を引いた。

 全項目、対処済み。


 ◆


 朝日が、窓の端から差し始めていた。


 庁舎の照明がすべて正常に戻っている。蛍光灯のチカチカも、自動ドアの誤作動も、影も足音も、もうどこにもなかった。


 疲労と、ファイルの束だけが残っていた。


「結局、なんだったんでしょうね」


 のどかがコーヒーカップを両手で包んだ。温かかった。夜通し飲んでいたコーヒーの中で、一番おいしく感じた。


「ホラーって、人が怖がってくれないと成立しないのよ」


 ヨルが窓の外を見ていた。空が白くなり始めている。夜と朝の境目。一番静かな時間だ。


「こ、怖がるどころか……腰が抜けました……」


 エミリがまだパイプ椅子から動けずにいた。


「お前が全部引き受けてくれたおかげだ」


 課長が立ち上がった。空のマグカップを流しに持っていく。


「怖いってのは、要するに知らないだけだ。知ったら、ただの現象になる」

「深いですね、課長」

「深くねぇよ。ファイルにそう書くと文字数が減るってだけだ」


 のどかは小さく笑って、ファイルを閉じた。


「じゃあ、一番怖いものってなんですか」


 課長が蛇口をひねった。


「この仕事量」


 ヨルが頷いた。


「一番現実的な恐怖ね」


 エミリが力なく手を挙げた。


「……私は、もうトイレが怖いです」


 窓の外でカラスが鳴いた。


 課長が振り返った。


「さ、通常業務だ。寝るなよ」


 のどかはデスクに向き直った。ファイルの束は減っていない。蛍光灯は全部点いている。窓の手形はいつの間にか消えていた。


 普通の朝だった、たぶん。


 ◆


 誰もいなくなったトイレの個室で、ドアが音もなく、ゆっくりと閉まった。



——業務日誌——

 案件名:庁舎内恐怖テンプレート現象

 発生場所:地球防衛軍極東方面日本支部・庁舎内各所

 災害区分:都市災害(ジャンル災害・テンプレート侵食型)

 被害状況:物理的被害なし。職員一名に精神的疲労。

 対応:窓の手形、非通知の怪異電話、出所不明のVHSテープ、トイレにおける不審な足音および打撃音を個別に対処。東雲研修生による単独トイレ調査が決定打となり、全現象の消滅を確認。

 備考:対応ファイルはB-7(未確認通話・怨念系)およびC-3(庁舎内環境異常)にて処理済み。東雲研修生がトイレ清掃の当番を自主的に申し出たが、理由は聞いていない。


 ※観測できない災害は人災扱いとして処理済み。


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