第4話②「東雲さんがトイレ掃除を申し出ました」
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テープの処理を終えて、休憩室に沈黙が戻った。
のどかがコーヒーを淹れ直し、エミリがカップを受け取る。課長はマグカップの底に残った液体を揺らしていた。ヨルは窓際に寄りかかって、夜の庁舎の外を眺めている。
深夜の休憩室。蛍光灯の明かりと、コーヒーの匂い。少しだけ、時間が緩んでいた。
ヨルがふと、思い出したように口を開いた。
「……そういえば、幽霊ってエッチな話が苦手だって言うわよね」
空気が止まった。
のどかがカップを持ったまま固まった。エミリのカップを持つ手が宙で止まっている。課長だけはコーヒーを飲み続けていたが、飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
「えっ……そうなんですか……? 」
「データとしては確認されていないと思いますけど……そういう統計は……」
「統計で出る話じゃねぇだろ」
沈黙。
誰も、次の言葉を継げない。
真面目すぎて、この話題の扱い方がわからないのだ。四人がそれぞれ別の方向を見ていた。のどかはカップの中、エミリは天井、課長は自分のマグカップ、ヨルだけが全員の顔を見回している。
「……もしかして、誰も心当たりないの? 」
ヨルが全員の顔を見回した。
のどかが顔を赤くしながら、真剣な目をした。何かを考えている。真面目に、一生懸命考えている。
「じゃあ……その、そういう話をすれば対策になるんじゃ……」
「たとえば? 」
「……えっと……キスとか……! 」
一拍の間があった。
「小学生ですか!?」
「やめろ。勤務中だ」
課長とエミリの声が同時だった。
のどかがしゅんと肩を落とす。真面目に考えた結果がこれだった。
「真面目すぎて逆に怖いわね、うちの課」
ヨルがカップを傾けた。
「色気のない職場ってのは、ある意味で最強の魔除けだな」
課長がそう言って、話が終わった。
のどかはため息をひとつ吐いて、ファイルに目を戻した。ホワイトボードの「悪口を言う」には、いつの間にか線が引かれていた。誰が引いたのかはわからないが、確かにこの話題の間、誰も悪口は言っていない。むしろ、誰も何も言えなかった。
ホワイトボードを見る。
潰した項目に線が引かれていた。窓、電話、映像、悪口。
残っているのは一つだけだった。
一、トイレに一人で行く。
のどかがペンを置いた時、視界の端でエミリが妙にそわそわしているのが見えた。
椅子の上で何度も座り直している。ファイルに目を落としているが、明らかに文字を追っていない。膝が小刻みに揺れている。
「……東雲さん」
「はい? 」
「もしかして、トイレ……」
エミリの動きが止まった。
一瞬の沈黙のあと、小さく頷いた。
「……さっきから、ずっと我慢してます」
その声は、普段の冷静なエミリのものだった。だが、姿勢の落ち着きのなさが、言葉以上に切迫感を伝えている。
課長がホワイトボードをちらりと見た。最後の一行。「トイレに一人で行く」。
「行ってこい」
「でも、一人で行ったら死ぬって……」
「テンプレだ。死なねぇよ」
「根拠は? 」
「俺の勘」
エミリは唇を結んだ。恐怖と生理現象の板挟みになっているのが、姿勢だけで伝わってくる。背筋は伸びているが、足元が定まらない。
のどかが立ち上がりかけた。
「私が一緒に行き……」
「ダメだ」
課長が遮った。
「テンプレの条件は"一人で行く"だ。二人で行ったら検証にならねぇ」
エミリが立ち上がった。覚悟を決めた顔だった。唇はまだ結んだまま、背筋だけはまっすぐ伸びている。
「……行ってきます」
「気をつけて」
のどかが声をかけた。エミリは小さく頷いて、ドアに向かった。
ヨルが呟いた。
「理屈の人間が一番安全よ。たぶん」
「たぶんは余計ですわ……」
語尾がわずかに崩れたことに、たぶん本人は気づいていない。
ドアが閉まった。エミリの足音が廊下に消えていく。のどかはモニターに手を伸ばしかけたが、廊下のカメラはトイレの中までは映らない。
待つしかなかった。
◆
廊下は静かだった。
エミリは足早にトイレへ向かった。蛍光灯は半分切れたままで、明るい箇所と暗い箇所が交互に並んでいる。自分の足音だけが反響していた。明るい場所を通り過ぎるたびに、暗い場所が余計に暗く感じる。
トイレの前で、自動ドアが開閉を繰り返していた。
開いて、閉まって、また開く。リズムは不規則だった。まるで呼吸しているように見えた。
無線のスイッチを押した。
「……自動ドアが勝手に動いてます」
『故障だろ。気にすんな』
課長の声は遠い。無線越しの声は、普段よりさらに淡々と聞こえた。
「故障にしては、タイミングが嫌な感じなんですけど……」
『機械に悪意はねぇ。さっさと行け』
エミリは息を吸って、ドアの隙間を抜けた。
トイレの中は静かだった。照明は点いている。白いタイルの壁。洗面台の鏡に自分の顔が映った。少し青い。目の下に隈ができている。深夜残業の顔だった。
個室に入った。ドアを閉める。鍵をかけた。カチャリ、と小さな金属音が響いた。
無線にノイズが走った。
「課長? 」
ザザ、と音が途切れた。
繋がらなくなった。
「……課長? 聞こえますか? 」
応答はない。ノイズすら消えている。無線のランプが消灯していた。
エミリは無線をポケットにしまった。
個室の中に、自分の呼吸と換気扇の低い音だけが残った。壁に囲まれた狭い空間。天井の蛍光灯が、ジジ、と微かに唸っている。
「……大丈夫。ただのトイレ。文明の産物」
便座が自動で開いた。
肩が跳ねた。
「……っ! 」
数秒、固まった。心臓が跳ねた分だけ、静寂がその後に重くなった。
それから、小さく息を吐いた。
「……ここはジャパニーズ……自動で開くのは当たり前……。おもてなし。そう、おもてなし……」
ぶつぶつと呟きながら、ようやく腰を下ろした。自分の声が個室の壁に跳ね返って、少し間抜けに聞こえた。
用を足す間、何も起きなかった。
静かだった。換気扇の音と、自分の呼吸だけ。
「……ふぅ。間に合った……」
小さな安堵の息をついた。
照明がチカチカと瞬き始めた。
「……え」
点滅が速くなる。蛍光灯の唸りが大きくなった。
消えた。
完全な暗闇だった。
非常灯の薄い緑だけが、足元をかろうじて照らしている。壁も天井も見えない。自分の手すら、輪郭がぼやけていた。
エミリは息を殺した。
暗闇の中で、自分の心臓の音だけがうるさい。ドクン、ドクン、と体の内側から響いてくる。
足音が聞こえた。
コツ、コツ、コツ。
床を叩く、小さな音。ゆっくりと近づいてくる。
一歩、また一歩。
どこから来ているのかわからない。反響が距離を歪ませている。だが、確実に近づいている。それだけは、わかった。
個室の前で止まった。
沈黙。
非常灯の緑の光の中に、ドアの下の隙間が見えた。何も映っていない。影すらない。だが、そこに何かがいる。圧だけが、扉の向こうから滲んでいた。
ドンドンドンッ!!
「入ってますわぁぁぁ!!! 」
叫んでいた。口調がどうとか、そんなことはもうどうでもよかった。
叩く音は止まらない。
ドンドンドンッ! ドンドンドンッ!!
声はない。呼吸もない。ただ、圧だけが扉の向こうにある。扉が振動している。鍵がカタカタと鳴っている。
「無線……無線……! 」
スイッチを押した。何度も押した。繋がらない。ランプは消えたままだ。
涙が出ていた。
手を合わせた。
「ジャパニーズ・トイレの神様ぁぁぁぁ!!! 」
声が裏返っている。
「当番制でしたけど明日も掃除いたしますわ!! 」
叩く音が続いている。
「特に念入りに……えっと……マイフレンド・オーガニック抗菌プラスで!! 漂白剤じゃなくてちゃんと天然成分で除菌いたしますわぁぁぁ!!! 」
叩く音が弱まった。
「毎週ですわ! 毎週やらせていただきますわ! 水回りも鏡もピカピカにいたしますわぁぁぁ!!! 」
音が止まった。
静寂。
蛇口から水が一滴落ちる音だけが、どこかで響いた。
ふっ、と照明が点いた。
目を開けた。
蛍光灯の白い光が、いつも通りに個室を照らしていた。白いタイルが白く光っている。換気扇が、何事もなかったように回っていた。
気配が消えていた。
恐る恐るドアの鍵を外した。指が震えて、二度失敗した。三度目で開いた。少しだけ開ける。
廊下は明るい。
誰もいない。
無線がザッと鳴った。
『おい、聞こえるか。状況報告しろ』
課長の声だった。いつもと同じ、抑揚のない声。それがどれだけ安心するものか、エミリはこの瞬間に初めて知った。
「……き、消えましたわ……」
『浄化完了だ。戻ってこい』
エミリは個室から出た。膝が震えている。
鏡の前を通り過ぎるとき、自分の顔を見ないようにした。見たくなかった。どんな顔をしているか、想像するだけで十分だった。
廊下を走った。全力で。
◆
ドアが開いて、エミリが転がるように部屋に入ってきた。
顔が真っ白だった。紙のような白さだ。
「も、もう二度と……単独任務はごめんですわぁぁぁ……」
のどかが立ち上がって駆け寄った。
「お疲れさまです、東雲さん。大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないです……全然大丈夫じゃないです……」
口調が真面目モードに戻りかけているが、声はまだ震えていた。のどかがそっと椅子を引いてやると、エミリはそのまま崩れるように座った。
課長がマグカップを持ち上げた。
「よくやった。お前の悲鳴で霊が逃げた」
「褒めてるんですか……けなしてるんですか……」
ヨルが肩をすくめた。
「たぶん両方よ」
エミリがパイプ椅子に崩れ落ちた。
端末の異常報告が、一件も更新されなくなっていた。ホワイトボードの最後の項目、「トイレに一人で行く」に、のどかが静かに線を引いた。
全項目、対処済み。
◆
朝日が、窓の端から差し始めていた。
庁舎の照明がすべて正常に戻っている。蛍光灯のチカチカも、自動ドアの誤作動も、影も足音も、もうどこにもなかった。
疲労と、ファイルの束だけが残っていた。
「結局、なんだったんでしょうね」
のどかがコーヒーカップを両手で包んだ。温かかった。夜通し飲んでいたコーヒーの中で、一番おいしく感じた。
「ホラーって、人が怖がってくれないと成立しないのよ」
ヨルが窓の外を見ていた。空が白くなり始めている。夜と朝の境目。一番静かな時間だ。
「こ、怖がるどころか……腰が抜けました……」
エミリがまだパイプ椅子から動けずにいた。
「お前が全部引き受けてくれたおかげだ」
課長が立ち上がった。空のマグカップを流しに持っていく。
「怖いってのは、要するに知らないだけだ。知ったら、ただの現象になる」
「深いですね、課長」
「深くねぇよ。ファイルにそう書くと文字数が減るってだけだ」
のどかは小さく笑って、ファイルを閉じた。
「じゃあ、一番怖いものってなんですか」
課長が蛇口をひねった。
「この仕事量」
ヨルが頷いた。
「一番現実的な恐怖ね」
エミリが力なく手を挙げた。
「……私は、もうトイレが怖いです」
窓の外でカラスが鳴いた。
課長が振り返った。
「さ、通常業務だ。寝るなよ」
のどかはデスクに向き直った。ファイルの束は減っていない。蛍光灯は全部点いている。窓の手形はいつの間にか消えていた。
普通の朝だった、たぶん。
◆
誰もいなくなったトイレの個室で、ドアが音もなく、ゆっくりと閉まった。
——業務日誌——
案件名:庁舎内恐怖テンプレート現象
発生場所:地球防衛軍極東方面日本支部・庁舎内各所
災害区分:都市災害(ジャンル災害・テンプレート侵食型)
被害状況:物理的被害なし。職員一名に精神的疲労。
対応:窓の手形、非通知の怪異電話、出所不明のVHSテープ、トイレにおける不審な足音および打撃音を個別に対処。東雲研修生による単独トイレ調査が決定打となり、全現象の消滅を確認。
備考:対応ファイルはB-7(未確認通話・怨念系)およびC-3(庁舎内環境異常)にて処理済み。東雲研修生がトイレ清掃の当番を自主的に申し出たが、理由は聞いていない。
※観測できない災害は人災扱いとして処理済み。




