第4話①「東雲さんがトイレ掃除を申し出ました」
庁舎の蛍光灯は、三本に一本が切れていた。
交換の手配は済んでいるが、業者がいつ来るかは未定だ。つまり、それまでこの薄暗さで仕事をしろということになる。予算は通っている。手配も済んでいる。それでも蛍光灯は切れたままだ。行政というのは、常にそういうものだった。
のどかは手元のデスクライトを点けて、怪人被害報告書の束と向き合っていた。決算用の集計作業。件数だけで三桁を超えている。一件ずつ分類し、被害額を算出し、対応レベルを記録する。地味な仕事だが、これが止まると予算が下りない。予算が下りないと、蛍光灯も交換されない。世界は書類で回っている。
「課長、社会的恐怖の欄なんですけど」
声をかけた先で、課長はマグカップを傾けていた。ブラックコーヒー。湯気はとっくに消えている。いつ淹れたものかもわからない。それでも課長は気にした様子もなく、冷めた液体を口に運んでいた。
「なんだ」
「人類の危機"と社会的恐怖、どっちに分類すればいいか迷う案件が多くて……」
「どっちでも通る。軽い方にしとけ」
「軽い方……」
のどかは小さくため息をつきながら、ペンを動かした。軽い方。この課では、判断に迷ったら軽い方を選ぶのが鉄則だ。書類が軽ければ承認が通りやすい。承認が通れば仕事が回る。回れば帰れる。少なくとも、理屈の上では。
隣のデスクでエミリがファイルをめくる手を止めた。
「怖かったですとか泣きましたって、被害者コメント欄に書いてあるんですけど、これ感想文ですよね」
「主観だな。数値にならねぇやつは備考欄に回せ」
奥のデスクでヨルがコーヒーサーバーの前に立っていた。夜勤のヨルからすれば通常業務の時間帯だが、残業組に付き合ってくれているらしい。特に理由は言わない。ただ、コーヒーを淹れる回数が妙に多い。
「主観を数値化したら、それこそホラーよ」
「だから備考なんだ」
課長の声には抑揚がない。いつも通りだった。深夜の庁舎で、四人が書類と向き合っている。それだけの、いつもの夜だった。
蛍光灯がチカチカと瞬いた。
「……課長、今、光が」
「電気代の呪いだ」
のどかは眉をわずかに上げたが、それ以上は言わなかった。この職場では、蛍光灯の不調くらいで騒ぐ気力はとっくに使い果たしている。異世界の門が開こうが怪人が現れようが書類一枚で処理する課だ。照明のチカチカなど、日常の範疇だった。
天井から「カタ……」と小さな音がした。
「い、今の……」
「建物の歪みだ。築年数を考えろ」
エミリが天井を見上げた。
「風圧か何かですかね。……でも空調は止まってますけど」
「じゃあ配管だ」
課長の返答は速い。考えているというより、反射で答えている。深夜の怪音に対するテンプレート回答。おそらく、この庁舎で何年も夜勤をこなしてきた経験がそうさせている。
ヨルがカップに口をつけた。
「夜中の根拠ほど、信用できないものはないわよ」
その言葉の直後だった。
のどかのデスクの端末画面が、ちらついた。一瞬ノイズが走り、すぐに復帰する。だが、画面の内容が変わっていた。赤い枠の報告表示が並んでいる。
「課長、庁舎内の異常報告が出てます」
のどかは画面をスクロールした。三階の会議室で椅子が勝手に動いた。五階の給湯室で蛇口が全開になった。地下駐車場で車のクラクションが同時に鳴った。どれも別々のフロアで、同じ時間帯に。
「全部このビルの中です。……どれも物理的な原因が見当たらないって」
課長はコーヒーを一口飲んだ。冷めた液体を飲み込む音がした。
「ホラー現象か。ずいぶんと季節外れだな」
「課長、ホラーって季節ものなんですか? 」
「需要のピークは夏だ。この時期にやる方が間が抜けてる」
エミリが端末を操作していた。報告データを整理している。几帳面な性格が、こういうときに出る。
「報告をまとめると、発生パターンに共通点があります。"一人でトイレに行ったら照明が消えた""名前を呼ばれて振り返ったら誰もいなかった""写真を撮ったら知らない影が映った"……」
指が止まった。
「すべて、ホラーのお約束ですね」
課長がマグカップを置いた。コトン、と小さな音がした。静かな庁舎には、それだけの音がやけに響く。
「ジャンル災害だな」
のどかはその言葉を、もう驚かずに受け止めた。ジャンル災害。フィクションのテンプレートが現実を侵食する現象。この課では珍しくない案件だ。
「発生条件のリストアップ、やりますか? 」
のどかがペンを構えると、課長が顎で奥の壁を示した。
「ホワイトボード使え」
エミリがマーカーを取り、几帳面な字で書き始める。ひとつ書くごとにキャップを閉め、次の項目を確認してからまた開ける。丁寧すぎて少し遅いが、字は綺麗だった。
一、トイレに一人で行く。
二、名前を呼ばれて振り返る。
三、深夜に写真を撮る。
四、悪口を言う。
五、非通知の電話に出る。
「全部、ホラー映画で死ぬ条件ですね」
ヨルがホワイトボードを眺めた。腕を組み、少し首を傾げている。
「お約束がそのまま発生条件になってるのね」
課長が椅子の背に体を預けた。
「脚本が現実にはみ出してる。テンプレを一個ずつ潰すしかねぇ」
のどかは議事録用のファイルを開いた。
「対処方針、記録します」
「おう。書いとけ」
課長はそれだけ言って、冷めたコーヒーを飲んだ。方針が決まったあとの課長は、いつもこうだ。あとは任せる。その無言の信頼を、のどかはようやく読み取れるようになっていた。
◆
最初に来たのは、窓だった。
のどかが報告書に戻ろうとした時、視界の端でエミリが固まっていた。ペンを持ったまま、窓の方を見ている。
「……窓に、手形が」
ガラスの表面に白い手形が浮かんでいた。五本の指がくっきりと見える。外側から押し当てたような形だ。ここは三階。外に人が立てる場所はない。手形は大きく、男性のもののように見えた。
「ほら来た、定番ね」
ヨルの声は平坦だった。のどかの背筋は少しだけ伸びたが、課長は振り返りもしなかった。マグカップを傾けたまま、背中で会話をしている。
「清掃業者の手形だ。外壁作業のときに触ったんだろ」
「確認しなくていいんですか……? 」
「樹脂コーティング用の手袋痕だな。サイズ的にもLだ」
「見てないですよね、課長」
「見なくてもわかる」
のどかは窓の手形と課長の背中を交互に見た。根拠のない断定。だが、課長がそう言うと、なぜか「そうかもしれない」と思えてしまう。長くこの課にいると、そういう感覚が染みつくのかもしれない。
そのとき、窓の外からバンッと音がした。
のどかの肩がわずかに跳ねた。ガラスが振動するほどの衝撃。手形のすぐ横だった。
「……いま、叩かれ……」
「業者がまだ残ってんだろ」
「この時間にですか……? 」
エミリが窓に近づいた。ガラス越しに外を覗く。外壁にゴンドラ作業用のワイヤーが垂れていた。風に揺れている。
「納期が厳しいのは、どこも同じですね……」
エミリの声には同情が混じっていた。深夜に外壁をぶら下がっている業者と、深夜に書類をめくっている自分たち。どちらも似たようなものだ。
照明がふっと安定した。チカチカしていた蛍光灯が落ち着いている。
「ほらな。ホラーは予算で解決する」
のどかは小さく苦笑した。ホワイトボードに歩み寄り、「一人でトイレに行く」の下に、「窓の手形——対処済み」と書き加えた。
◆
電話が鳴ったのは、その直後だった。
庁舎の固定回線。夜間の外線だ。深夜に鳴る電話というのは、それだけで不穏な響きがある。日中なら何気ない音が、暗い庁舎では妙に大きく反響した。
のどかはディスプレイを確認した。非通知。
「……課長、外線です。非通知」
「こんな時間にか。出ろ」
受話器を取った。冷たいプラスチックの感触。
「こちら地球防衛軍、特殊災害対策課です」
数秒の沈黙。回線の向こうで何かがざわついている。ノイズなのか息なのか、判別がつかない。微かに、何かが擦れるような音が混じっている。
「……応答がありません」
「無言電話か。切るな、耐えろ」
「深夜の無言電話って、だいたいホラーよね」
ヨルの声が後ろから聞こえた。
のどかは受話器を耳に当てたまま、じっと待った。受話器越しの沈黙は、部屋の沈黙とは質が違う。何かがそこにいて、黙っている。そういう種類の静けさだった。
小さな声が聞こえた。受話器の奥、かすかに。
子どもの声のような、そうでないような。言葉になっているかどうかも怪しい、ぎりぎりの音量。
のどかの背筋がわずかに伸びた。
「……なにか聞こえました。子どもの声かもしれません」
「児童保護の案件だ。うちの管轄外だから転送しろ」
「あ、待ってください」
エミリが端末を叩いていた。
「発信元を追ってますけど、特定できません。回線自体が不安定で……」
「不安定ってことは、物理回線じゃねぇな」
「怪異由来の可能性がありますね」
のどかが受話器を耳に戻した瞬間、ノイズが走った。砂嵐のような音の中から、声が浮かび上がってきた。今度ははっきりと。
のどかの指が止まった。
「……後ろを見てって言ってます」
課長の声は変わらない。
「業務上、後方確認は義務だ。見ろ」
のどかは振り返った。
誰もいない。廊下の蛍光灯が白く光っているだけだった。ドアは閉まっている。人影はない。当たり前の、何もない廊下。
電話が切れた。ツー、ツー、と発信音が戻る。あっけない幕切れだった。
「……切れました」
「対応ファイル作れ。発信元特定不能、通話内容は児童名乗りの脅迫未遂、通信断で終了」
課長が淡々と指示を出す。声のトーンは、コーヒーの注文と変わらない。
「分類はどうします? 」
エミリが書類を構えていた。
「フォーマットB-7、未確認通話・怨念系で処理」
のどかはペンを止めた。
「……そんなフォーマットあるんですか」
「防衛軍は書類の数だけ怪異がある」
ヨルが小さく笑った。
「行政って便利ね」
のどかはホワイトボードに「電話——対処済み」と書き加えた。潰した項目が二つになった。残りは三つ。
◆
三つ目は、休憩室で見つかった。
コーヒーを淹れ直しに行ったのどかが、テーブルの上に置かれたものを見て足を止めた。
黒い箱のようなものだった。手のひらより少し大きい。角が丸く、表面にはうっすらとほこりが積もっている。見覚えのない物体だった。
「課長、これ……なんですか」
エミリも覗き込んだ。眉を寄せて、慎重に観察している。
「箱? いえ、なにかのケースですね。プラスチック製……中に何か入ってますけど」
ヨルが横から手を伸ばした。迷いなく手に取る。
「ああ、これカセットテープよ。ビデオの」
「ビデオ? 」
「VHSっていうの。昔の映像記録メディア」
のどかとエミリが顔を見合わせた。二人とも実物を見るのは初めてらしい。のどかがおそるおそる手に取った。思ったより軽い。中で何かがカラカラと動く感触がある。
「ラベルに何か書いてあります。……再生厳禁。その下に、この映像を見た者は七日後に死ぬ」
エミリが読み上げた声は、怖がるというより不思議そうだった。手書きの文字をじっと見つめている。
「七日後……」
のどかが課長を見た。課長だけはテープを一瞥して、すぐに興味を失ったようだった。椅子にもたれたまま、マグカップの底をいじっている。
「ああ、それな。昔流行ったやつだ」
「知ってるんですか? 」
「知ってるも何も、定番中の定番だ。見たら呪われる系の」
エミリが首を傾げた。
「見てみます? 」
辺りを見回した。
「……そもそも、これを再生する機械ってあるんですか? 」
「ない。三年前に廃棄処分済みだ」
課長が即答した。
「じゃあ検証しようがないですね」
「ファイルに再生機器なしのため現物確認不能と記録しとけ。以上」
のどかはペンを止めた。
「……それで終わりなんですか」
「確認できないものは存在しない。基本だろ」
ヨルがテープを棚に戻した。ほこりが少し舞った。
「呪いも、フォーマットが古いと届かないのね」
エミリが小さく頷いた。
「互換性の問題ですね。技術的に」
のどかはホワイトボードに三つ目の線を引いた。窓、電話、映像。残りはあと二つ。




