第3話②「誰かに歩かされていた人が、自分で緑茶を買いました」
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最初のケースは、幼なじみエンドだった。
都内某所。夕暮れの屋上。——テンプレートの中のテンプレートと言える舞台設定だ。モニターには、監視カメラの映像が映っている。
屋上のフェンス際に、二人の人影。女性が男性の前に立ち、髪を風に揺らしている。夕日が逆光になって、シルエットが美しく浮かび上がっている。完璧な構図だ。ラブコメの最終回そのものだ。
女性が口を開いた。
「私、ずっと——」
涙声。震える唇。十年越しの想いを告げようとする、その瞬間——
屋上の扉が開いた。
ヨルさんとのどかが、クリップボードを持って現れた。
「失礼します。防衛軍です」
ヨルさんの声は穏やかだが、事務的だった。
「確認なんですけど、お二人とも社会人ですよね?」
女性が固まった。男性も固まった。夕日は依然として美しいが、空気が急速に冷えていく。
「高校時代の想い出を、社会人になってからぶつけるのは——推奨しません」
のどかがクリップボードを見ながら、申し訳なさそうに言った。
「恋愛感情の長期保管は、品質の劣化を招きます。最終消費期限を確認してください」
「……え? 何の話……?」
女性が困惑している。ヨルさんが一歩前に出た。
「率直に言いますね。恋愛って更新制なんですよ。十年間同じ気持ちでいるのは美しいけど、人は変わる。あなたが好きだったのは十年前の彼で、今の彼じゃないかもしれない」
「そんな……」
「思い出に残る方が、きれいなまま残りますよ」
ヨルさんの声は冷たくない。むしろ優しかった。ただ、現実だった。
モニターの前で、課長が経過を見ていた。映像の中の女性の表情が変わっていく。涙が引いて、目の焦点が戻って、少しずつ——冷めていく。
エミリがタブレットの数値を読み上げた。
「恋愛熱、急速低下中。……屋上の空気温度も正常に戻りました。夕日の角度が補正されて、逆光が消えてます」
「テンプレートが崩れたか」
「はい。演出効果が解除されました。ただの屋上です」
モニターの中で、女性がハンカチで顔を拭いた。男性が「……俺たち、高校以来だよな。なんかすごい久しぶりだな」と言った。女性が「……うん。久しぶりだね」と答えた。二人は少し黙って、それからエレベーターに向かった。
「青春、沈下完了」
課長が静かに言った。
◆
二番目のケースは、負けヒロインだった。
こちらはのどかがモニター越しに見守り、ヨルさんが現場に出た。
公園のベンチに、一人の女性が座っていた。二十代前半。制服姿。コンビニの名札をつけたまま、昼休みに出てきたらしい。目が赤い。泣いた後だ。
ラブコメの構造上、この女性は「負けた側」だった。想いを寄せていた相手が、別の女性を選んだ。テンプレートにおける「負けヒロイン」。彼女の周囲には淡い悲劇のエネルギーが漂っていて、通りすがりの人々が思わず振り返り、何故かこちらまで切なくなるという影響を及ぼしている。
ヨルさんがベンチの隣に座った。
「……隣、いいですか」
女性が顔を上げた。ヨルさんはコンビニの缶コーヒーを二つ持っていて、一つを差し出した。
「泣いた後は、甘いのがいいですよ」
女性が缶を受け取った。プルタブを開ける音が、静かな公園に小さく響いた。
「私……負けたんです」
「うん」
「好きだったのに。ずっと好きだったのに、選ばれなかった」
ヨルさんはコーヒーを一口飲んで、少し間を置いた。
「うん。それは辛いね」
「……かわいいだけじゃ勝てないんですね」
ヨルさんが空を見上げた。七月の空は青くて、雲が高い。ラブコメの演出なら曇り空のはずだが、テンプレートの効力がここでは薄れているのか、ただの夏空だった。
「勝ち負けで恋愛を測ると、ずっと苦しいですよ」
「でも——」
「選ばれなかったのは事実。でもそれは、あなたの価値とは関係ない。好きだった気持ちは本物だったでしょう? それが嘘じゃなかったなら、負けてない」
女性がコーヒーの缶を両手で包んだ。
「……そう思っていいんですか」
「いいですよ。勝ち負け関係なく生きてる人のほうが、ずっと強い」
モニターの前で、のどかは息を止めていた。ヨルさんの声は穏やかだった。気だるげなのに、言葉の一つ一つに重さがある。この人にも、たぶん——何かを選ばれなかった経験があるのだと、のどかは思った。言わないだけで。
エミリがタブレットを確認した。
「悲劇エネルギー、消失確認。周囲への感情波及も停止しています」
「……あの子、大丈夫かな」
のどかがぽつりと言った。
モニターの中で、女性がコーヒーを飲み終えて立ち上がった。目はまだ赤いが、背筋は伸びていた。コンビニの名札を直して、職場に戻っていく。ヨルさんはベンチに座ったまま、缶コーヒーの最後の一口を飲み干した。
「社会復帰完了」
課長が静かに言った。
◆
残りのケースは、エミリが効率的に処理した。
五つ子が全員「昔助けてくれた男の子」を主張した事案は、DNA検査で三十分で片付いた。該当者は父親だった。エミリのコメントは「美談が戸籍に負けました」。
レンタル彼女が本気の恋愛感情を発症した事案は、契約条項の読み合わせで解決した。課長のコメントは「恋愛感情の発生は業務外事案だ」。
文化祭のクライマックス予兆は、非常照明の全点灯とBGMの停止で鎮圧した。会場が白色光に包まれた瞬間、全観客のテンションが急降下した。課長のコメントは「クライマックスは現場の敵だ」。
同性カップルの情動フィールドが拡大している事案は、エミリが「法的にも一般化しています。異世界人との婚姻すら認められている現代で、問題にする要素がありません」と一蹴した。課長が「時代が仕事を奪っていくな」と呟いた。
テンプレートが一つ潰れるごとに、日本上空の「恋愛的事象」の数値が下がっていった。エミリがグラフで経過を示す。ピンク色の分布が、じわじわと薄くなっていく。
「テンプレート消化率、約七十パーセント。残りの三十パーセントは——」
「発生源だな」
課長が言った。
「テンプレを潰しても、書き込みが続く限り新しいのが生まれる。元を断つ」
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作戦は単純だった。
「該当スレッドの可視性をゼロにする。あらゆるネットワークからのアクセスを遮断。検索結果から除外。リンクを無効化。——誰の目にも触れないようにしろ」
エミリがタブレットを操作した。
「了解。観測停止モード、起動します」
「あとは何もするな。返信するな。言及するな。存在を認識するな」
課長が腕を組んだ。
「荒らしの対処法は昔から決まってる。——構うな」
ヨルさんが頷いた。
「反応すれば喜ぶ。構えば増長する。一番効くのは、誰も見ないこと」
「インターネットの鉄則ですね」
のどかがメモ帳に書いた。「荒らしに構うな」。報告書に書くべきかどうかは迷ったが、一応書いておいた。
作戦が実行された。
モニターに、スレッドの更新状況がリアルタイムで表示されている。
投稿は続いていた。
『なぜ展開が動かない?』
『幼なじみルートはどうなった?』
『三角関係が発生しないのはおかしい』
一件。また一件。だが、閲覧数はゼロのまま。誰にも読まれていない。現実への反映も、徐々に弱まっていく。テンプレートの効力が薄れ、恋愛的事象の発生率が下がっていく。
十分経った。投稿の間隔が空き始めた。
三十分。内容が変わった。
『なぜ誰も来ない?』
『返信ください』
『誰か、いませんか?』
一時間。
最後の投稿が表示された。
『もう誰も見てくれない。語りたかっただけなのに。』
それきり、更新は止まった。
モニターのグラフが急速に平坦になっていく。日本上空の恋愛的事象の数値が、正常範囲に戻った。雨の日の偶然の再会はゼロ件。パンをくわえて走る女性もゼロ件。屋上の告白は——一件だけ残っていた。テンプレートではない、本物が一件。
静かになった。
「……沈静化しました。完全に」
エミリがタブレットを閉じた。
ヨルさんがコーヒーカップをテーブルに置いた。
「切ないような、めんどくさいような」
「誰かと話したかっただけなんですよね」
のどかが小さく言った。モニターの、もう更新されないスレッドを見つめている。
「好きなものを語りたい。誰かに聞いてほしい。共感してほしい。——その気持ちは、わかります」
「わかるけどな」
課長がコーヒーを啜った。
「それで世界を巻き込むのは、やめてほしいもんだ」
壁のモニターで、部長が扇子を閉じた。
「報告書を出せ。次元干渉型の案件だ。発生源は特定済み、対処済み。再発の可能性は低いが、監視は続けろ」
「了解」
◆
夕方。
報告書の最終確認をしている時に、エミリが追加データを持ってきた。
「鈍感野郎の現況です」
モニターに、鈍感野郎の映像が映った。あの鈍感な青年。恋愛テンプレートが消えた今、彼の周囲には何も起きていない。ただの街を、ただ歩いている。
「恋愛フラグ、全消滅を確認しました。周囲の感情場も正常値です」
「今は何をしてるんだ」
「元の生活に戻ったようです。大学と自宅とアルバイト先の往復。特に変わったことはありません」
モニターの中で、青年がコンビニの前で立ち止まった。ガラス越しに棚を見ている。何を買おうか迷っているらしい。三十秒ほど立ち尽くして、結局何も買わずに歩き出した。
「……コンビニで何買うかも決められないのか」
課長が呟いた。呆れた声だったが、怒りはなかった。
のどかはモニターを見ながら、少し考えた。
「課長」
「んー」
「この人、自分では何も選べないんですよね。優しいけど、決断しない。誰かに言われるまま動いて、流されるまま歩いて。——でもそれって、この人のせいだけじゃないですよね」
課長がコーヒーを口元で止めた。
「二十年間、ずっと台本を書かれていたんだから。自分で選ぶ練習をする機会がなかった。……操り人形から糸を切ったら、最初は立てなくて当たり前だと思います」
課長は何も言わなかった。コーヒーを啜って、モニターを見た。
青年がまた立ち止まっていた。今度は自販機の前だ。ボタンの前で、また迷っている。
「……まあ」
課長がぽつりと言った。
「自分の足で歩き始めたなら、それでいい。何を選ぶかは——そのうち自分で決めるだろ」
モニターの中で、青年がようやくボタンを押した。出てきたのは、ただの緑茶だった。特に何の変哲もない、百三十円の緑茶。青年はそれを受け取って、一口飲んで、また歩き出した。
のんきな足取りだった。急いでもいないし、迷ってもいない。ただ、自分のペースで歩いている。
のどかは少しだけ笑った。
「……百三十円の緑茶、自分で選べましたね」
「大した進歩だ。——さ、報告書終わらせるぞ」
課長が椅子を引いた。のどかはメモ帳を閉じて、デスクに向かった。
窓の外では、七月の夕暮れが普通の色に染まっていた。ピンクでも、オレンジでも、テンプレートの色でもない。ただの夕焼け。ただの空。
普通だ。地味で、退屈で、何のドラマもない。
——それが、一番いい。
——業務日誌——
案件名:恋愛過熱抑止計画(通称:ラブコメ災害)
発生場所:日本国内全域
災害区分:都市災害〜国家災害(次元干渉型)
被害状況:恋愛テンプレートの物理現象化が日本国内で多発。特定個人(鈍感野郎)の周囲に現象が集中。雨天時の偶然の再会、屋上での同時告白、パンをくわえて走る女性の大量発生等。物理的破壊はなし。
対応:発生源は旧ネット掲示板に残存する次元干渉型存在(通称:神スレ)。動機は「語り相手がほしかった」。①恋愛テンプレートの個別無効化(世界つまらなく化計画)。②発生源の観測停止(荒らしに構うな方式)を実施。全現象沈静化、鈍感野郎は元の生活に復帰。
備考:神スレの最終投稿「もう誰も見てくれない。語りたかっただけなのに」
※観測できない災害は人災扱いとして処理済み。




