第3話①「誰かに歩かされていた人が、自分で緑茶を買いました」
朝のオフィスに、いつもと違う報告が入った。
「課長。日本国内でのみ、恋愛系の異常現象が多発しています」
エミリがタブレットを持って課長のデスクに立った。画面にはニュースサイトが開かれていて、見出しが並んでいる。
『学園屋上で同時に十組が告白成功——専門家「統計的にありえない」』
『駅のホームで「十年ぶりの偶然の再会」が一日二十四件』
『雨の日の転倒→抱き止め→目が合う事案、全国で同時多発』
『パンをくわえて走る女性、一日二万人確認——警視庁が注意喚起』
「……また日本か」
課長がコーヒーを啜った。
「地球の恋愛実験場じゃねぇんだぞ」
のどかはデスクでモニターを確認していた。災害情報のフィードに、赤い文字で速報が流れている。「恋愛的事象の異常増加」。文面だけ見ると冗談のようだが、数字は冗談ではなかった。告白成功率が九十八パーセント。すれ違い再会の発生率が通常の四百倍。雨天時の傘シェア率が百二十パーセント——百を超えている意味がわからない。
「課長、これ災害扱いになりますか」
「もうなってる。上が認定を出した。現実改変系だ」
課長が受話器を置いた。今しがた連絡を受けたらしい。
「原因は不明。ただし、特定の個人の周囲に現象が集中しているという報告がある。——東雲、データを洗え」
「了解です」
◆
一時間後。
エミリがまとめた資料がモニターに表示された。タイトルは「恋愛的現実改変現象——発生源調査報告」。
ヨルさんは夜勤明けでまだ帰っておらず、デスクの端でコーヒーカップを傾けている。壁のモニターには部長が映っていた。今日はいつもの扇子ではなく、腕を組んで画面を睨んでいる。
「分析結果を報告します」
エミリがタブレットを操作した。
「全国の恋愛的異常現象を地理的にマッピングした結果、ほぼすべての事象が一人の人物を中心に同心円状に発生していることがわかりました。コードネームは便宜上——」
課長が映像を見て、先に言った。
「"鈍感野郎"でいいだろ」
「……では、コードネーム"鈍感野郎"で」
モニターに、監視カメラの映像が映った。
ごく普通の青年だった。年齢は二十歳前後。特に目立つ容姿ではない。中肉中背。前髪が長くて目元が隠れている。昔のギャルゲーの主人公みたいだな、とのどかは思った。どこにでもいそうな、何の特徴もない青年が、街を歩いている。
——ただし、その周囲が異常だった。
青年が駅の改札を通ると、後ろの女性が切符を落とした。青年が何気なく拾ってあげた。女性の頬が赤くなった。青年は気づいていない。
横断歩道で信号待ちをしていると、隣に立った女性のスカーフが風に飛んだ。青年が手を伸ばして捕まえた。女性が「ありがとうございます」と微笑んだ。青年は「あ、いえ」と言って、また前を向いた。
コンビニに入ると、レジの女性が商品を落とした。青年が拾った。店を出ると、入口で雨宿りしている女性に傘を差し出した。自分は濡れて歩いていった。
のどかは映像を見ながら、メモを取る手が止まった。
全部、善意だった。全部、反射的な親切だった。そして全部、本人はまったく気づいていない。助けた相手がどんな表情をしているか、一度も見ていない。視線が合わない。相手のリアクションを確認しない。ただ目の前の「困っている人」に反応して、それが終わったら次の瞬間にはもう忘れている。
「一日の観測で、恋愛フラグに該当する行動が四十七件。すべて無自覚。本人に確認したところ——」
エミリがタブレットを操作して、鈍感野郎へのヒアリング音声を再生した。
『え? 何かありました? 普通に歩いてただけですけど』
「……ということでした」
課長がコーヒーを置いた。
「自覚、完全にゼロか」
「ゼロです。本人は自分の周囲で何が起きているか、まったく認識していません」
「フェロモンとか、体質的な異常は」
「各種検査を実施しましたが、数値はすべて正常です。むしろ恋愛に関連するホルモン値は平均以下で——逆に"恋愛無臭体質"とでも呼ぶべき状態です」
ヨルさんがコーヒーカップの縁から、ぽつりと言った。
「……ないわね」
「え?」
「タイプじゃない、って言ってるの」
のどかが映像を見直した。確かに、この青年に魅力を感じるかと言われると——困る。悪い人ではない。むしろ善良だ。だが、何と言うか、人としての輪郭がぼやけている。意思がない。自分で何かを選んでいる感じがしない。周囲に流されて、たまたま親切をして、たまたまフラグを立てて、たまたまそこにいる。
「なんでああいう人がモテるんですかね」
のどかがつい漏らした。
エミリが少し考えてから答えた。
「捕食者の気配がないからでしょう。安全だと感じる。害がないから近づける。本人が何も求めてこないから、こちらから近づきたくなる」
「でもそれって——」
「社会的には危険物だ」
課長が言い切った。
「何も選ばない人間の周りに人が集まると、全員が事故に巻き込まれる。優しいだけで決断しない。それが一番厄介だ」
壁のモニターから、部長の声が響いた。いつもより低い。
「私は結婚願望ありますけど、あれは無理です」
ヨルさんが頷いた。
「満場一致ですね」
部長が腕を組み直した。
「……もったいないな」
のどかは少し意外だった。部長がこういう言い方をするのは珍しい。
「四十七回も誰かに手を差し伸べておいて、自分では何も掴んでいない。あれだけ人のために動けるのに、誰の顔も見ていない。——見えていないなら、話は別だが」
課長が小さく頷いた。
部長が続けた。
「あの男自身に悪気はないように見える。本当に何も見えていないなら——本人のせいじゃなく、見えないようにされている可能性がある」
その一言で、会議の空気が変わった。
◆
原因の調査が進むにつれ、鈍感野郎の異常は「体質」や「偶然」では説明がつかないことが明らかになっていった。
エミリがホワイトボードに仮説を並べた。
①ただの偶然
②体質(フェロモン異常)
③経験値バグ
④チート(恋愛運の改変)
⑤次元的干渉
「①と②は検証済みで否定。③と④は現象の規模に対して説明力が弱い。残るのは——⑤です」
「次元的干渉」
課長が呟いた。
「鈍感野郎の周囲で起きている現象は、確率の歪みではなく"因果の書き換え"です。出会うべきでない人間が出会い、起きるはずのない偶然が起き、本人だけがそれを認識しない。まるで——」
エミリが言葉を選んだ。
「誰かが、台本を書いているかのように」
ヨルさんが目を細めた。
「物語のテンプレートね。幼なじみの再会。雨の日の出会い。転んで抱き止める。全部、どこかで見たことがある展開ばかり」
「はい。現象のパターンを解析すると、すべて"ラブコメ"と呼ばれるジャンルのテンプレートに完全一致します。誰かが——この世界の外側から、恋愛テンプレートを現実に適用している」
のどかはモニターに映る鈍感野郎を見た。青年は今、カフェで一人でコーヒーを飲んでいる。窓際の席。向かいは空席。何も起きていない、平穏な時間。だがカメラの角度を変えると、カフェの入口に三人の女性が立っていて、全員が青年を見ている。青年は気づいていない。
——操られている。
のどかはそう感じた。この青年は、自分で歩いているように見えて、誰かに歩かされている。フラグを立てているのではなく、立てさせられている。善意も親切も本人のものだが、その善意が発動するタイミングと場所が、あまりにも都合よく配置されすぎている。
「課長。この人、たぶん自分では何も選んでないです」
「ああ」
課長がコーヒーを啜った。
「選ばされてるな。——問題は、誰に」
◆
発生源の追跡には、さらに三時間かかった。
エミリが通信波形を辿り、庁舎内のサーバーと連携して逆探知を行った結果、信号はインターネットの最深部——とっくに閉鎖されたはずの旧掲示板群に行き着いた。
「……見つけました」
エミリの声に、珍しく緊張が混じっていた。
「発生源は、二十年以上前に閉鎖された掲示板サーバーに残存するスレッドです。通称——"神スレ"」
「神スレ」
「はい。正式名称は不明。スレッドのタイトルは"理想の恋愛展開を語るスレ Part∞"。閉鎖後も定時に自動投稿が続いていて、その投稿内容が——現実に反映されています」
エミリがスレッドの内容をモニターに表示した。
投稿者名は「神(自称)」。名前欄に他の書き込みはない。二十年間、たった一人で投稿し続けている。
『今日も尊い展開がない』
『恋愛はバトルだ。平和で終わるな』
『鈍感主人公こそ正義』
『幼なじみは報われるべき』
『告白は雨の日に限る』
「……二十年間、一人で語り続けてたのか」
課長が呟いた。
「誰も返信していません。閲覧数もゼロ。でも投稿は止まらない。そして、投稿された内容がそのまま——日本国内の現実に反映されている」
ヨルさんが腕を組んだ。
「なるほどね。これが発生源……。構ってほしい神様ってわけ」
「観測不能を自称しながら、見つかる場所に書いてるんですよね」
のどかが言った。
「隠れたいんじゃなくて、見つけてほしいんですよ。でも誰も来ないから、現実のほうをいじって注目を集めようとしている」
課長がコーヒーを置いた。
「つまり——荒らしだな」
沈黙。
「構ってほしくてスレを荒らすタイプの。自分の好きなテンプレートを世界に押し付けて、反応を待ってる。二十年間ずっと」
エミリが頷いた。
「観測データと一致します。閲覧数が上がると現象が拡大し、注目されるほど活性化する。逆に言えば——」
「見なければ消える」
課長が言い切った。
「荒らしに構うなってやつだ」
壁のモニターから部長の声。
「それで解決するのか」
「します」
課長は淡々と答えた。
「インターネットの鉄則です、部長。荒らしは無視。反応すれば喜ぶ。構えば増長する。一番効くのは——誰も見ないことだ」
部長が少し間を置いて、扇子を広げた。
「……やれ」
◆
だが、その前にやることがあった。
現象は日本全国に広がっている。鈍感野郎の周囲だけでなく、テンプレートの影響で各地に「ラブコメ的事象」が物理現象として発生していた。これを放置はできない。
「テンプレを潰す」
課長が宣言した。
「恋愛現象の発生パターンは全部テンプレートだ。テンプレを一つずつ現実で上書きして、地味にする。恋愛のクライマックスを、全部日常業務に戻せ」
エミリが作戦名を端末に入力した。
「作戦名——世界つまらなく化計画」
「……もう少しマシな名前はなかったのか」
「課長が言ったんですけど」
「いいから始めろ」




